種貸社(住吉大社)

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種貸社鳥居

 住吉神宮寺跡石碑から少し歩いて広場にでると向こうのほうに何やら神社らしきものが見える。新しく整備したようで何だろうかと近づくと「種貸社」だった。

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「種貸社」石柱

 神社の名前を彫った石柱があって、下の土台に「一粒万倍」とあり、「塩爺」の名前が彫ってある。塩爺の名前はあちらこちらの神社などで見かけた。ここもそうか。

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神社のなかの置物

 神社のなかに入ってみると全てが新しくつくられている。真ん中に置物があって鯛の上に銭が載っていてその頂上に双葉がでている。500円硬貨もご丁寧に彫り込んである。商売の元手になるお金、農業のもとになる種、それから子種も一緒にして、種ということでまとめているらしい。たとえばお米の種なら借りて増やして返す。これは近世の大阪では地主―小作関係において行われていたこと。商売でも借りたカネは返す。利子をつけて返す。借りれば増やし、増えるというのが常のあり方だった。子種は貸したかどうかは知らないけれど、これも当たれば増える。万倍どころか億倍になる。要するに増殖の神様らしい。ここで元手の種になるお金を祈祷してもらって、住吉大社の摂社を廻るコースも設定されている。こういう大阪の土地にみあった神社らしい。

住吉神宮寺跡石碑(住吉大社)

 住吉大社の御文庫の左手の門を入り御文庫の側面を見る。

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御文庫側面

 必ずしも大きい建物とはいえないが、蔵作りで火に強いと思われる。八角形の窓が目にとまる。

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住吉神宮寺跡石碑 古札納所

 御文庫のすぐとなりに「古札納所」と「住吉神宮寺跡」の石碑がある。

 この石碑のところをみると後の塀にかこわれた林が神宮寺の跡かと思ってしまいそうだが、これは住吉神宮寺の境内があったところの入口あたりになると受けとったほうがよいようだ。

 昔の「摂津名所図会」を見ると、このあたりから奥のほうにある種貸社のあたりに広い空き地がある。この地点からすると種貸社のさらに奥のほうに大海神社があるが、そその手前までが元の住吉神宮寺の境内になる。いま残っている空き地は神宮寺の一部ということ。あたらしい建物も建てられているから、寺の跡とはみえない。

 塀に沿って歩いていって、広場の向こうの「離れた」ところに新しい神社(種貸社)があるなと見えるのは、そのせいだとあとで知った。一種ぜいたくな空間の使い方なのだが、これは今の京都御所でも同じで、かつて建物があったところを取り払った結果、広々とした空間が出現した。こういう事情なので、京都御所ほどの広さではないにしても貴重な広い空間を大阪で体験することができるのである。

 ついでに「摂津名所図会」をみると、住吉神社の第一本宮の周りだけ四角に囲った塀が見られる。その塀の外に第二~第四本宮がある。四つの本宮の配置は同じ。第一だけが別枠になっているが、第一から第三までは、いずれも同じ経緯で生じた神であるから(底・中・表)、今の本宮(本殿)の配置のほうがよいのではないだろうか。こういうことから,第二と第一本宮のあいだが少し開いているのはそのせいなのかとも思う。

 

御文庫(住吉大社)

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御文庫

 住吉大社の第一本宮の左手奥の門をくぐるとすぐに御文庫が見えてくる。これを見たかった。その存在は知っていたが、見るのははじめて。つぎは御文庫の正面から。

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御文庫正面

 「大阪最古之文庫」という碑がたっている。御文庫とは何かは、左手の黒っぽい石版に説明書きがある。

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御文庫説明書き

 御文庫とは、書籍商の株仲間が上梓した書籍を収めた文庫のことである。建物は1727年の建築で、株仲間の解散した1873年明治6年)まで続いたそうだ。出版した書籍を収めるのは現在の国会図書館の機能も同じである。いまも出版物は国会図書館に収めることになっている。

 建物は思ったよりも小ぶりであった。それでも百年以上にわたって納めされた書籍は貴重なものが含まれているという。それにもまして感慨深いのは、大阪(大坂)にこのような文庫があり、京都や江戸の書籍商も参加して御文庫が維持されていたということだ。現在の大阪の出版業(出版社)の数は、京都におおきく引き離されている。ましてや東京にはさらにぐんとおおきく引き離されている。出版業は、学問の基礎を支えるものであり、こんにちの言葉でいうと情報産業を支えるものでもある。デジタル化しているから関係ない、などという考え方もあるだろうが、文化の基礎にかかわる人材が多くないとこのような業界は維持されない。そして、それを受け入れる土壌が必要となる。明治初年の頃までは日本の文化を引っ張っていた証しがこの御文庫なのだと見ると、現在の大阪の状況はかなり残念と言わざるをえない。

 住吉大社に御文庫が設けられたのは、和歌の神様として住吉神社が祀られていたからでもあろう。「儲ける」は文化を「信」じる「者」がいてこそ、その深みをまししてゆくのだろう。

住吉大社本殿(続き)(大阪市住吉区)

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住吉大社本殿(横から)

 これは住吉大社本殿を横から見た写真。右手の本殿と左手の拝殿とは屋根のかたちが違うことがわかる。朱塗りの部分が本殿。本殿の内部は内陣、外陣と別れ、側面は各2間。屋根は直線。妻入り。

 拝殿は前回のブログの写真のように、屋根は本殿とはちがって、複雑な形をとっている。唐破風、照りなど、仏教建築の影響をうけている。

 住吉大社には境内の奥左手のほうに七堂伽藍をそなえた立派な住吉神宮寺があったが明治の廃仏毀釈で取り壊され、住吉大社には残っていない。回廊の一部が生根神社に、西塔が徳島の切播寺に移され残っている。

 

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住吉大社本殿、斜めから。

 本殿を斜めから見た写真。屋根の直線の具合がよくわかる。拝殿との屋根の違いも。建物の土台の部分が残念ながら朱塗りの板で囲われていてよくわからない。下の隙間から覗いてくればよかったのだが、屋根に気をとられてしまった。ともかく古い神社建築の様式を残しているのと、それが四棟も並んでいるのだから、これはすごいことだと思う。

住吉大社本殿(大阪市住吉区)

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住吉大社本殿へ

 反橋(太鼓橋)渡り、鳥居と朱塗りの門を抜け、住吉大社本殿へ。住吉大社の本殿(本宮)はなんと四つある。門の先に見えているのは第三本宮。

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第三本宮と第四本宮(屋根)

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第四本宮

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第三本宮と第四本宮のあいだ

 第三本宮と第四本宮のあいだから、第二本宮とその先の奥に第一本宮が見える。住吉大社らしい景観といえば、ここのような気がする。

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第二本宮

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第一本宮

 住吉大社はこのように四つも本殿(本宮)があるから、普通の神社のようにひとつの本殿にお詣りしておしまいということにはならない。
 第一本宮から第三本宮まで海にむけて一列に並んでいる。第四は第三の隣にたっている。これは第三と門との間に建てる余地がもうないからという理由もあるだろうが。また第四だけは別の系統の祭神が祀られているからといえるかもしれない。

 四つもあるとどなたが祀られているのだろうかと気になる。一般庶民からすると、普通の神社と違い、一回の賽銭ではたりないので、最低四回の賽銭が必要になる。まして大きな住吉大社には摂社がたくさんあって、四回分の賽銭ではとうてい足りない。みみっちい話になった。反省して、いくついくつ何度もお詣りして、その分御利益をさずかることが得られやすいと受けとるべきだ。

 問題の四つの本宮に祀られている神さまとは。第一本宮には底筒男命、第二本宮には中筒男命、第三本宮には表筒男命、第四本宮には神功皇后が祀られている。

 神宮皇后が新羅遠征からの帰途のさいに、船が進まなくなったので、底・中・表筒男命を祀ったら先に進んだということから、この三つの神が神宮皇后とともに祀られている。航海の神であり、津(港)があった住吉(住之江、すみのえ)にはふさわしい祭神である。

 和歌にも住吉大社とその地はたびたびとりあげられたから和歌の神様ともみなされるようになった、ということだろう。

反橋(住吉大社)、川端康成文学碑

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反橋(住吉大社

 住吉大社といえば、まず反橋。手前の横から見ると欄干の朱塗りが緑と青空に映える。

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反橋 2

 けっこうな勾配で階段状になっている。

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反橋 3

 橋を上がりかけたが、けっこうな勾配でちょっと登るのがやっかい。足の弱いひとは危ないだろう。

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反橋 4

 反橋の上から。足の弱い人は、左右にまわって平な橋を渡る。この写真に石橋が写っている。そこを通る。

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反橋 5

 渡り終わって振り返るとこんな感じ。登って降りて、これだけに集中し、降りてきたところで神社の鳥居を目の前にする。ここで橋を渡る以前の心から神社へ向かう心へと切り替わっている。精神状態の切り替え装置としてはよく出来ているものだと思った。

 ふつうはここへ降りてきてそのまま住吉大社の本宮へと向かうのが普通なのだが、右手のほうにゆくと川端康成の文学碑がある。住吉大社にはたくさんの石碑があるので、この文学碑はひっそりと置かれたようにも見えるたたずまいなので、これは見逃すかもしれない。

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川端康成文学碑 「反橋」

 川端の「母に抱かれて反橋を降り」たという「反橋」からの一節が刻んである。

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川端康成」についての説明板

 

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川端康成文学碑の説明(すみ博)

 「すみ博2020」の川端文学碑の説明書きの写真には昔の反橋の様子が写っている。今の橋と違い反った橋に穴がうがたれているのが分かる。これはのぼり降りがこわいだろう。中止して穴に足を入れないとすべり落ちる。いまの反橋よりも渡るにはもっと緊張感が要求されたと思われる。貴重な写真である。

遣唐使進発の地石碑、狛犬(住吉大社)

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遣唐使進発の地」碑

 住吉大社の境内に足を踏み入れてすぐのところ、左手にこのおの大きな石碑がある。遣唐使を乗せた船が四隻、住吉大社と反橋も右手に描かれている。白砂青松の海岸の様子で現在の大阪の海とまったく様子が違う。もとはこういう景色だったのだろうな。

 聖徳太子の存命のとき(晩年)に中国は随から唐へと代わった。第一次の遣唐使は630年。この時代の前後には、唐ばかりでなく、新羅百済渤海などとの使いを送ったり、送られたりが盛んであった。

 この絵は色があざやか。この前に立って現代の外交にも思いをはせるのが良いだろう。

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狛犬(左、吽)

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狛犬(右、阿)

 狛犬が立派。大きくて堂々としている。犬というよりはライオンのようでもあり、想像上の神獣像のような表現になっている。

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狛犬(吽)

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狛犬(阿)

 近くにもう一対の狛犬があって、こちらは愛嬌がある姿をしている。両方とも少し口が開いているので阿、吽ともいいかねるのだが、歯が見えているほうが阿だろう。年とった親爺がニタッと笑ったような姿だ。姿かたちはアンバランスだが、人を追い払うよりは、よう来なさったといっているように見える。

 この狛犬四体を見て、なんかすごいところのようだなとの感想を抱いてしまったのは住吉大社のすごいところかな。