道祖神社(さい・じんじゃ)(西国街道、大阪府茨木市)

道祖神社鳥居

 ぼろ塚に行くには、阪急バスの「豊川1丁目」で降りるが、その停車場からすぐのところが神社の裏手になる。横の道を行くと神社の前にでる。

道祖神社」石柱

 神社境内の入口には「道祖神社」と彫られた石柱があり、「明治十七年」の文字がある。

道祖神社本殿

 唐破風が乗っかったなかなか立派なものである。

本殿を横から見たところ。

 171号線から小道を入ってくるとこの境内の横からの入口がある。

 以上。

 というのは神社についての説明板が通常のばあいあるのだが、何もないので「見た」という以上はわからないからである。境内はきれいに掃除されていて、きちんと維持されていることがわかる。

 どういう神社なのか気になって茨木市の神社一覧があるのでみてみると、由緒は「不詳」とある。じつはもうひとつ「道祖神社」が茨木市にはあって、こちらも由緒は「不詳」。つまり「わからない」と記載されている。読み方は「さい・じんじゃ」であるが、「どうそ・じんじゃ」と呼んでいる書物もあった。こういうふうに「わからない」となるとよけい気になる。氏子の人に聞いたわけでもなく、ただの通りすがりの者だから、一般的な推測をするしかない。以下はその推測の部分である。

 道祖を「さい」と読ませるのは、この神社の南の丘の方向に「道祖本」(さいのもと)という地名があるから、「さい」と読ませるのだろうと推測がつく。その上に「道祖本」村というのは、以前はもっと広い地域を指していた。

大阪府の地名辞典というのがあるからそれであたってみると、「道祖本村」(さいのもとむら)というのは、現在の宿川原、豊原、藤の里、清水、豊川を含む。つまり、いまの「道祖本」の地名で示されるよりずっと広かったということがわかる。さらに、村名は道祖(どうそ)神社に由来する。このように地名辞典では「どうそ」と呼んでいる。
道祖は「さい」とも読む。今の神社の呼び方はこちら。

 神社は昔の道祖本の北の端の方向に位置する場所に現在はある。

 おそらく「道祖」というのは「道祖神」を指していたのではないか。それならば旅の安全を守る神であると同時に、この「道祖神」は「塞の神」(さいのかみ)でもある。
そこで、 道祖神については、宮田登『神の民俗誌』岩波新書(黄)、1979年9月、を参考にする。宮田著の第六章「和合の神」のところに道祖神について取り上げてある。「道祖神は岐神(くなどのかみ)であり、塞(さい)の神であり、外敵の侵入を防ぐ呪力を発揮する」。道祖は、塞(さえ)の神、久那斗神、巷(ちまた)の神とも言われた。そうすると「道祖」が「さい」と言われるのも納得がいく。

 さきの茨木市の神社一覧には「道祖神社」に祀られているのは「猿田彦神」とある。「巷」とは「八衢」(やちまた)のことであり、古事記では八衢にあらわれて日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)が天降りしようとするとき先導しようと待っていた神である。別れ道=岐(くなど)で道案内するから、道祖神として祀られてもいいかも。

 おそらく猿田彦が祀られるようになってのは、明治以降の宗教政策との関係もあるのではないだろうか。「明治十七年」建立という石柱が入口にあったが、維新政府は明治3年ころから神社改めというのを各地でおこない、村々の神祠を検分し、神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物を取り除かせ、神名を定めたりした。(ここは安丸良夫『神々の明治維新岩波新書、162~163頁。)道祖神は八衢彦神・八衢姫神に改めさせるとかした(同上書、166頁)。このような神社の信仰対象についての一般的な理解からすると、「明治十七年」というのは、ひょっとして神社改めのあとのすがたをしているのかもしれないし、由緒は不詳とされているかもしれないと思う。こんな推測をしなくても、ご神体、祭日の催しがわかればそれでいいのだが。なかなか立派な神社なので簡単でもよいので案内板でもたててほしい。

 

ぼろ塚(西国街道、大阪府茨木市)

ぼろ塚道標

 西国街道から少しはずれて、現代の街道である国道171号線に出る。171号線も京都から神戸へと至る街道であるから現代の西国街道とも言える。ところがクルマに乗って移動していると、この「ぼろ塚」の道標はまず目に入らない。あらかじめ「ぼろ塚」というものがあるという知識がないとここには来ないだろう。

勝尾寺

 左手に勝尾寺川が流れており、ここはせき止めらているから水が多い。鴨が2羽浮かんでいる。

ぼろ塚への道

 作業場のような建物と川との間の狭くなった通路を抜けるとぼろ塚がある。電柱のふもとに見える石がそれ。

ぼろ塚石碑

 ぼろ塚と書いてあるらしいが読めない。読むには困難。くずし字の知識もいるようだ。もともと此の場所にあったのではなく、ここから少しはなれた柿の木のもとにあったと伝えられているようだ。そばには新しくなった説明板がある。

ぼろ塚説明板

 古い説明板を載せた解説もあるが、これは茨木市教育委員会が設置した新しい説明板。『徒然草』第百十五段にある「ぼろぼろ」の決闘の話が元。「ぼろ」は梵論、「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字などと云ひける者」(岩波文庫、196頁)とある。岩波文庫の注(西尾実・安良岡康作校注)には「ぼろぼろ」とは「非僧非俗の無頼乞食の類で、徒党を組み、山野に放浪した類いの人々。後世の虚無僧とは区別される」とある。

 説明板にあるように「しら梵字」というぼろと「いろをし房」というぼろとが「対面し」決闘した。「しら梵字」の師匠が「いろをし房」に殺されたというのでその恨みををはらさんと尋ねあるいていたのがここで出会った。「前の河原」で「心行くばかりに貫き合ひて、共に死にけり」と『徒然草』にはある。解説板のようには具体的な刺しところまでは書いていないが、そのように伝わっている話もあったのかもしれない。

 「宿河原」という土地は、岩波文庫の注では川崎市の宿河原であるとしている。川崎ので話なのか、茨木の「宿川原」なのかは、両説あるが、京に近いし、茨木の宿川原のほうが兼好法師が聞いた話と自然であろうと思う。両説の元になった文献が入手できないので両説の根拠についてはなんとも言えない。ちなみにこの石碑は江戸時代に設置されたものだったと記憶している。

小林製薬中央研究所

アンメルツヨコヨコ

 勝尾寺川の左岸に小林製薬の中央研究所があって「アンメルツヨコヨコ」の文字が見える。肩がこったときにときどきお世話になっています。

西国街道、春日神社(大阪府茨木市豊川1丁目)

新鍛冶屋橋北詰

 西国街道の椿の本陣(郡山本陣)から西へ歩いてくるとここに到達する。阪急バスを利用する人は郡山団地行きバスに鍛治屋橋までというのがあるので終点まで乗って少し戻るとここに来る。勝尾寺川にかかっている橋である。この橋のところから西に西国街道を歩くとすぐに春日神社の入り口に到達する。

春日神社(豊川)

 春日神社の入り口。豊川1丁目。灯籠のそばに児童遊園があって、遊具がいくるか置いてある。児童はいなかった。この日は快晴で、桜は満開。民家のそばに見事な桜が咲いていた。

豊川春日神社近くの桜1

民家のそばの桜2

春日神社近くの桜3

春日神社鳥居

 茨木市には春日神社はたくさんある。古代にはこの一帯に藤原氏の勢力がつよかったということによる。たくさんある春日神社のなかでも大きなほうだろう。

石段の上から集落を見る

 川を渡り、鳥居をくぐると石段がある。その上から西国街道沿いの集落をみたところ。その先には国道171号線が走っている。

春日神社境内

 境内は思いがけず広くて山のほうに向かって歩く。

戦艦の「絵馬」

 軍艦那智の奉納「絵馬」が掲げてあった。昭和4年8月とある。昭和4年は1929年。同年の10月にニューヨーク株式市場で大暴落があり、世界恐慌へ突入した。その直前に奉納されている。その前年の1928年には、満州奉天の近くで張作霖爆殺事件があった。関東軍の河本大作らが仕掛けたものとされている。陸軍の力が政治の世界でも強くなって、このあと1941年には太平洋戦争となるのだが、陸軍に対して海軍もその力を誇示しようとしていた時期の記録としてこの軍艦那智の「絵馬」を見ることもできるのではないだろうか。こういうところで思いがけないものを見てしまったとう感じがした。

春日神社本殿

 賽銭箱は扉のなかにあるのか、わからない。扉の外にはない。ほかの神社でも箱ごと持ち去る不届き者がいるという張り紙がしてあったから、その対策だろう。格子から覗いてみたがわからなかった。お参りだけですませた。

豊川学校、他への道標

 西国街道にもどりしばらく歩くと、「豊川学校 勝尾寺 粟生 宿久庄 清水」と沢山の地名を刻んだ石標がある。

勝尾寺川と箕川の合流地点

 さきほどのところから171号線へ出て、しばらく西へ行くと「ぼろ塚」の道標がある。ここからは橋がないので三角州のところへは渡ることができない。

街道交流館、太田酒造(滋賀県草津市、東海道)

草津の街道交流館

 草津宿にある街道交流館。東海道中山道の宿場街だった草津の様子、当時の旅の様子を展示している。団体さんがどっと入ってきて、しかも狭いところなので早々にでてきた。交流館の前には誰もいないが、実はひとがいっぱい入っている。なんとなく人混みを避けたくなっているのに気づく。

太田酒造

 草津の案内図を見ていて、太田酒造があるのに気づいた。じつは太田酒造というのは神戸にもあって、そこにはヴォーリズ設計(とされている)建物がある。その建物が公開されていたときに見学に行った。そのとき建築物は「太田酒造」の持ち物であって、滋賀県にもとの太田酒造があり、「太田」というのは江戸開府の太田道灌と関係があるのだ、ということを知った。ヴォーリズ建物の玄関先には太田道灌の狩姿の彫像があった。ほとんど忘れていたが、草津に太田酒造があるとは思ってもみなかった。

道灌

 その名も「道灌」とうお酒の菰被りが置いてある。

太田酒造

 太田酒造の建物。風格がある。

屋根のうえから

 なにか見られているような気がしたら。屋根のうえから見つめる「ひと」がいる。

 箏と三味線のお店でした。宿場街には欠かせなかったお店なんでしょう。それにしてもこういったお店が街のなかにあるのはすごいことですね。

 

草津宿本陣(東海道、滋賀県草津市)

記憶のなかの草津

 これは記憶のなかの草津宿の風景。中央に「1954」の文字があるから、戦後まもなくのころの記憶のなかの町の様子か。今の町の様子と比べると相当違うのだろう(知らんけど)。下部に諸施設の簡単な紹介が並んでいる。

東海道の案内板

 これは東海道の案内板。いまも「東海道」は日本の代表的な幹線(鉄道、旧東海道線、新幹線、国道1号線)として残ってい歩行する道から、鉄の道に変わり、いまや空のルートの時代となっている。「東海道中膝栗毛」という名作があるように、どうも道中談というのは歩く程度のスピードに似合っているようだ。

草津宿本陣説明板

 草津宿本陣とはどのようなものか、についてはこの案内板に書かれているとおり。さて、本陣に入ってみる。入場料は「交流館」と合わせて350円だったと記憶する。

草津宿本陣玄関

 草津宿本陣の玄関先。この写真には写っていないが、右手の建物のところに受付がある。玄関先のたたずまいは、茨木市にある「椿の本陣」にそっくり。本陣の中に入ってもそれは感じた。大名を泊める「本陣」であるからには、同じような規模、機能を必要とするから、同じようなかたちになるのだろう。

台子の間

 お茶の準備をする間。行ったときは3月だったからか、こんな飾りがしてあった。

お殿様はこの隣の間になる。

上段の間

 お殿様はこの上段の間に。書院造りになっている。一段分厚い敷物があり、その上にお殿様はお座りになる。床下からの襲撃に備えてのこという説明がされている。あとで気づいたが、撮影禁止のマークがあった。ごめんなさい。気づかなかった。同じような設定だなとばかりにパッと写してしまった。

お風呂場

湯殿説明

 湯殿=お風呂場は、いまの庶民が使うお風呂場とは相当違う。お湯は別のところで沸かしてここまで持ってくる。お付きの人もいて、風呂に入る、というより湯浴びをしたという感じなのだろう。

明治天皇行在所石碑

 これは明治天皇の行在所の石碑。明治天皇が泊まったという記念碑。本陣は明治3年に廃止されている。明治天皇が泊まったのは明治11年だから、そのあと。天皇徳川時代なら将軍にあたる。草津にはホテルもなかったであろうから、格式からいって旧本陣に宿泊された。迎える本陣のほうもそれを名誉としたという記念碑である。石碑を建てるほどの大事だったという証であろう。

草津宿本陣の横のすがた

草津宿本陣の正面

 

旧草津川の跡、草津追分道標(中山道、東海道、草津市)

草津川跡1

 トンネルの横に階段があるので上がると、もと草津川の跡地は凹状の公園になっていて、休日のせいか多くの人が歩いたりすわったりしている。

草津川跡地2

 屋台も出ていて、ここで炊き込みご飯を買って昼ご飯とした。このときは桜が咲くにはもう少しという時候だが暖かくて外でも過ごしやすい。

草津川の土手から旧街道を見る

 旧草津川の土手のところから旧街道を見下ろすとこんな感じ。結構な高さがある。天井川というのはこれほどの高さのところを流れていたということだ。今の草津川は付け替えられて草津市役所の南のほうを流れている。

草津追分道標

 旧草津川の天井川から降りたところに草津追分(中山道東海道の別れ道)の道標がある。「左 中仙道美のぢ」とある。崩し字なので今の人間には読みづらい。中山道=「美濃路」という意味である。東海道のほうはいまのクルマが通る国道1号線とは違って狭い道なので、歩く街道だったのだと再認識する。

草津宿(中山道、東海道)

東海道線 草津駅 (東海道草津市

 昔の東海道は歩いて旅をしていた道。いまはJRの草津駅が宿駅の代わりをしている。はじめて鉄道駅を降りた。

草津宿

 駅の出口をそのまま進むと「草津宿」と彫られた石柱がある。デッキの上に設置してある。背後にけっこう高いビルがある。草津は人口増加地区で、京都、大阪方面に通勤する人も多い。どこの地域もだいたいは人口減少なので、その意味で貴重な地域なのである。

中山道」の説明看板

 草津東海道の宿駅であるとともに「中山道」の宿駅ともなる。草津中山道東海道が合流する、あるいは分岐するからだ。草津追分。

トンネル

 中山道らしき道を京都の方向へ歩くと、トンネルがある。滋賀県に多い天井川の下をくぐるトンネルである。ちょっと見では天井川とは見えない。