歴史

京都の「小野」

○京都の「小野」について。 柳田國男は「地名考説」でも京都の小野について言及している。(柳田、定本20巻、85頁) 「京都の四方にも無数の小野があり、其中では琵琶湖西に在るものゝ如き、奠都以前より既に屋號になっていた。しかもこの一族の名士、小野毛…

「野」と「原」(司馬遼太郎「阿波紀行」)

司馬遼太郎『阿波紀行、紀ノ川流域』の「三好長慶の風韻」のところに(99頁)、「原士」(はらし)という言葉が出てくる。これは、司馬の言うところによると、「湯桶読みだが、稲作できない土地を耕す武士のことであり、阿波独特の制のことである。数は藩全…

司馬遼太郎「三好長慶の風韻」

司馬遼太郎も三好長慶の「古沼」のエピソードを取り上げている。『街道をゆく』32(朝日新聞社)、「阿波紀行、紀ノ川流域」。このなかの「三好長慶の風韻」という節においてである。風韻とは風雅なことをいう。長慶は優れた武将であったが、飯盛城での連歌…

松本健一『泥の文明』における「古沼抄」

花田清輝の「古沼抄」は、松本健一『泥の文明』(新潮社)でも取り上げられている。もっとも、「古沼抄」にある三好長慶の連歌の会のエピソードは、司馬遼太郎も取り上げている。 連歌の会での長慶の付け句は、会の途中で弟の実休入道(三好義賢)が岸和田城…

五連の竈(竃、かまど)

土間には(板間とのあいだには)五つの竃が並んでいる。また土間の北側にはさらに大きな竃がある。これは災害などの救恤のときなどに使われたものだそうだが、会所での大人数での集まりなどでも使用されたであろう。汁もの、煮込み料理に使う大鍋が竃にかか…

土間と梁組(鴻池新田会所)

鴻池新田会所本屋の土間と梁組。これほど広い土間を見たのははじめて。鴻池新田を束ねる会所の土間だけのことはある。この土間でいろいろな作業も行われたのであろう。上を見上げると立派な梁組が見える。説明には400年もののクロマツが使われているとある。…

鴻池新田会所本屋

JR住道から一駅、鴻池新田に「鴻池新田会所」が残されている。重要文化財。学研都市線の電車の高架から住道方面に向かうとき右手に見える。あっという間に通り過ぎるけれども、実際に訪ねてみると、たいへん立派な会所であることがわかる。その名の通り、大…

住吉神社(住道)

住道はもとは角堂浜(すみのどうはま)と言った。今は恩智川と寝屋川の合流地点に祀られている。JR住道駅を下車、デッキのところへ出るとそれはそのまま川の対岸に渡る橋になっている。橋の途中に右手に川の合流地点へとゆるやかに降りてゆく小さな橋があり…

八幡神社狛犬と神社縁起

写真は狛犬の後ろ姿から見たもの。台石に「團野氏」と彫られている。「御供田」はその昔「團野村」と言ったという。團野氏は、この地の名家だった。石清水八幡の社領(御供田)だったことから、「御供田」という地名となったという。 神社縁起には、源義家の…

農民感謝碑

平野屋新田会所跡の土蔵礎石のある所の北側に隣接している、小さな密林状態となっている場所がある。小学校のところから橋を渡ってすぐの所に石碑がある。農民感謝碑で、「明治18年と22年の大水害時に、地主高松氏や支配人による救済活動に対し、農民が感謝…

平野屋新田会所跡(跡地の一部)

平野屋新田会所は約2400坪あったそうだ。立派な長屋門、本屋、土蔵、などがあって、「新田」開発の様子を伝える歴史的に重要な場所だった。いまは坐摩神社と跡地の礎石が一部残っているくらいだ。船着き場の石段もあったが、いまは調査のうえで埋め戻されて…

坐摩神社(平野屋新田会所跡)

街道らしくない道をひたすら歩いて、国道170号線(新)を渡り、西へ。この道でいいのだろうかと思いながら歩くと、「坐摩神社」と彫ってある石柱がある。歩く方向によっては見落とすかもしれない。道の北側、奥のほうに行くと坐摩神社(いかすりじんじゃ)が…

メノコ橋の欄干

大東市歴史民俗資料館のところから、東高野街道を南下するとすぐに「メノコ橋の欄干」がコンクリートの上に並べてあり、となりにその説明板がある。詳しい内容はその写真の説明を読んでもらうことにして、昔ここには井路があり、橋が架かっていた。その石の…

野崎まいり舟運の図

ようやく野崎詣りの、大坂からの舟運の図が登場する。今の野崎のところからは本当に舟が行き来していたのかと疑問になるが、いまでも「津」のつく地名が残っている。大坂の八軒家浜から徳庵、住道を経て、観音浜までの水路があった。八軒家浜はいまも大阪の…

平安時代の京都、大阪、奈良交通図

平安時代の京都、大阪、奈良の交通図。ちょっと地図のかたちが変わっているようだが、京都と大阪、奈良に置かれた都の位置関係がわかる。長岡京、恭仁京、藤原京と平城京、難波京、平安京の位置関係はこのようになるのかと、あらためて地図を眺めてみたくな…

古墳時代の大阪地域

古墳時代の大阪地域の地理図。おなじみの百舌鳥古墳群、古市古墳群、三島古墳群の位置が表示されている。中央に河内湖がある。大東市域では堂山古墳群。これだけの古墳を築くことができるだけの権力と財力が、この地域に集中していた。丘陵地、台地のあるあ…

河内湖の時代(弥生時代)

縄文時代につづき弥生時代になると、河内湾から河内湖へと呼び方が変わる。といっても地理図では、海と河内湖はつながっている。大東市地域の遺跡が詳しく表記されているが、他の地域の弥生時代の遺跡もあちらこちらにあることがわかる。そしてその遺跡のあ…

河内の古代地理図(旧石器時代)

大東市立歴史民俗資料館の常設展示で、たいへん興味深い図が展示してある。古代(歴史以前)から現代までの河内地方の地理の様子がどのように変化してきたのかを説明する図である。河内の北部はとくに陸地になったり海になったり低湿地帯になったりしたこと…

深野南新田切図(明治19年)

写真は大東市蔵の「河内国讃良郡深野南新田切図」。昨日と同じく平野屋新田会所市民サポーター会議のパンフレットから。いまの大都市の真ん中の部分が新田として開発されたという図である。明治19年の図であるから、池が田畑となって新田らしくきれいに整地…

深野池(大東市)

大東市の歴史民俗資料館にあった「新田の歴史と遺産」というパンフレットには、かつての池、水路、川の様子が描かれている図が掲載されている。その中から「大和川付け替え工事概略図」を紹介する。300年前に大東市の基礎が作られたということなのだ。川、池…