松本健一『泥の文明』における「古沼抄」

花田清輝の「古沼抄」は、松本健一『泥の文明』(新潮社)でも取り上げられている。もっとも、「古沼抄」にある三好長慶連歌の会のエピソードは、司馬遼太郎も取り上げている。

連歌の会での長慶の付け句は、会の途中で弟の実休入道(三好義賢)が岸和田城で討たれたとの注進があったが、それを受けたあとの詠歌であり、連歌の会が終わってから弟の戦死を告げたという。長慶の剛胆さをも物語るエピソードである。

ところで松本の著書のキー・ワードは「泥」である。松本は泥・砂・石の三つの文明を分ける。三文明の分け方は和辻哲郎『風土』が有名であるが、それに対比させつつ、「モンスーン」の風土の特徴を「泥」と捉えるのである。松本の「泥」の捉え方のほうが、和辻よりもより一層地理的に広く、世界各地の風土そのものに密着しているように思う。

「泥の風土から乾いた土地ができると、水辺の葦は少なくなり、そこに乾いた土地に適したススキが増える」(松本、75頁)。

すでに見てきた風景の変化であるが、これを松本は「土地改良の時期。戦国末期(織田信長の頃)、日本の人口は、奈良・平安の5、6百万から、千六、七百万に達していた」と人口の変化に結びつけて、「人口増を支える産業的条件」に着目する。
「泥の風土は、水と固い土地とに分けられ、・・・真夏から秋の実りのころには水田が乾いて日干しになるように土地改良された」(松本、77頁)。

そして、「三好長慶の付句には、そのような土地改良に応じて、日本全土が『泥沼』から、『野』へと変化していった戦国末期から江戸期への風景の変容が窺えるわけだ」(松本、77頁)。

花田清輝の場合は、三好長慶のエピソードを、文学制作論、転形期論として論じているが、松本健一の場合は、「土地改良」として、江戸期の「コメ本位の農本主義が体制の基本思想」となるもとの風景として論じている。

両者とも、河内の沼から野へ、という移行には触れていない。河内では大和川の付け替え、新田開発といっても、すべてイネが育つような土地にはならなかったようだ。河内木綿が栽培されるようになり、それが名産品になったのも「土」そのものの性質にもよっていたらしい(これは鴻池新田会所の展示説明にある)。

河内という局所的な話はさておいて、松本の文明論はスケールが大きく、また世界と日本の各地の実情に適合した議論が展開されていて興味深いものである。