「野」の語義(白川静『字訓』)

白川静の漢字三部作には、『字統』『字訓』『字通』があります。この三部作をつくりあげたというのは、まさに超人というしかありません。この三部作の中の『字訓』から「野」についての記述を引用しておきます。『字統』での「野」の記述と違って、日本語での「野」の使用に焦点があてられていますから、日本語で漢字表記の問題を考えるときの参考になります。記述の途中で余計な感想をさしはさんでいます。あしからず。

 

◆「野」(の)  白川静『新訂 字訓』(普及版)、2007年11月。
広々としていて、人の住まない土地、農耕などの及んでいないところ、野原をいう。区別していえば、原とは広々として平らかなところ、野は山裾などのゆるい起伏のある傾斜地をいい、野山・裾野のようにいう。
  {「野」を耕作が及んでいないところ、「野原」と解釈している。これは司馬遼太郎の説とは異なるし、おそらく司馬の考えのもとであろう柳田國男とも違うようだ。しかし、白川説のほうが日本語の「野原」という意味での使用法だろう。}
新村出説に「なゐ(地震)」の「な(地)」の母音交替形であるという。「ね」とは大地・地下をいう語で、これらは一系を成すものとみることができる。
幸田露伴の[音幻論]に、野を「延ぶ」と関連させて解するが、「野」のノは甲類。奴(ど)をノまたヌに用いるが、そのよみかたについてはなお議論がある。
沼を西南日本では「のま」ということが多く、また沼地を「のち」と呼ぶことが多い。「の」という単語ではこの語のみが甲類で、箭(の)・荷(の)などはみな乙類である。「除く」(のく)「後」(のち)なども乙類音である。「野」(ノ)以外に、甲類音ではじまる明確な例が他にないことも注意すべきである。

 

 さねさし相模(さがむ)の袁怒(おの)(小野)に燃ゆる火の火中に立ちて問いし君はも [記二四]
 ・・・青山(あおやま)に鵼(ぬえ)は鳴きぬ。佐怒都登理(さのつとり。さ野つ鳥)雉(きぎし)は響(とよ)む 庭(には)に鳥鷄(とりかけ)は鳴く 慨(うれた)くも鳴くなる鳥か この鳥もうち止めこせね・・・[記二]
 春の努(の、野)に鳴くや鶯(うぐひす)なつけむとわが家(へ)の園(その)に梅が花咲く[万八三七]
 霞立(かすみた)つ野(の)の上(へ)の方(かた)に行きしかば鶯鳴きつ春に成るらし[万一四四三]

 

[新撰字鏡]に「墅 野廬なり、乃々伊保なり」、[和名抄]に「野 字はまた墅に作る、能(の)。 郊牧外地なり」、[名義抄]に「野 ノ、ノラ、イヤシ」とみえる。
野は予(よ)声。[説文]十三下に「郊外なり」とし、重文として壄(ヤ)の字を録する。金文の[大克鼎(だいこくてい)]に埜(ヤ)の字があり、地名に用いる。いずれも土に従う字形であり、土は社の初文。そのような原野においても、その地霊を祀ることが行われていたのであろう。わが国でも、荒野は悪霊の住むところとして、特におそれられたものである。
  {原野=荒野をとりあげて、『字統』にもない説明を加えている。「荒野」は悪霊の住むところ。これはなんとなく『聖書』での「荒野」の記述を思い起こさせる言葉ですね。日本語での「野」の使い方の参考となるかも。 →さらに余計なことですが、アメリカ思想における「荒野」から「原生自然」への展開も思いおこさせます。}

 

 少し長い記述ですが、私にはわからないところもありますので、(ほぼ)そのまま引用しておきました。記紀万葉(書紀はないですが)からの引用も役立つと思います。ここで注目したいのは、「野」についての最初の語義の説明です。これは『字統』にはありません。しかもこんな形で説明をおいているという感想を持ちます。『字訓』は『岩波古語辞典』を参考文献としてあげていますから、それを参考にしての記述であろうと思われます。白川静は『岩波古語辞典』の記述への批判やつっこみもところどころでしていますので、『字訓』は参照していて面白い辞書です。