京都の「小野」

○京都の「小野」について。

 柳田國男は「地名考説」でも京都の小野について言及している。(柳田、定本20巻、85頁)
 「京都の四方にも無数の小野があり、其中では琵琶湖西に在るものゝ如き、奠都以前より既に屋號になっていた。しかもこの一族の名士、小野毛人の墓碑などは、京都の至って近くから出て居る。山城の京それ自身が、以前は実は一個の小野であつた。周囲の高地を以て、外界より遮断し、ちやうどあの時代の一族の大きさを以て纏まって安住する頃合な野があつたら、それを小野と名づくるに不思議はない。家が分かれて小さくなり一方にはまた形勝の地は占められてしまふと、人の欲も亦小さくなつて、次第に水源を尋ねて八瀬大原の奥のやうな、僅かな山懐をも我が小野と満足し、それでまだ足らぬときは嶺を横ぎり、近江に下つて住むやうになつて、後終に全国の野や原に、多くの小野氏を分散せしむる一つの因縁を作つたのである」。

 ここの小野は、「八瀬大原の奥のやうな、僅かな山懐」を小野と呼んでいるが、これは八瀬大原への入口のところにある現在の上高野の小野のことを指していると思われる。地形をみると山懐に入りかけのところにある土地である。小野氏は山背国愛宕郡小野郷を本拠にしていた。上の文にある小野毛人小野妹子の子、677年に死去している。1613年に、上高野の崇道神社の山の古墳から銅板墓誌が出土して、毛人の墓と分かった。墓誌は現在国宝に指定されている。毛人の父の小野妹子については、『姓氏録』に「大徳小野妹子近江国滋賀郡小野村に家れり。因りて以て氏となす。日本紀に合えり」とあり、小野妹子が滋賀の「小野村」に家を構えていたことにより、そのあと滋賀の小野が本拠のように思われてきたようだ。小野一族から出た著名人の神社が滋賀の小野にはいくつかある。滋賀の小野が先か山背の小野が先かと問題をたてると、父が滋賀、子どもが山背を本拠地としていたということになり、もとの本拠とされていたのとは順序が逆になる。車で行くとわかるが、大原を過ぎて、途中越えの峠を下りれば小野に出る。行き来があったと考えるほうがよいだろう。小野妹子厩戸皇子聖徳太子)にも仕えていたし、遣隋使となって中国にも渡っている。607年、608年と続けて隋へと渡っている。奈良と滋賀、山背のあたりの距離感は現代とは違うのであろう。

 また大津市の地図を見ると、和邇、真野、小野と古代氏族名の地名があるのに気がつく。和邇氏と小野氏は同族だったとみられているから、単独の氏族のみで考えないほうがよいようだ。話が、「野」の「小野」から少しはずれてしまった。