小野妹子神社

f:id:m-yoshidam:20190825210257j:plain

小野妹子神社

 小野妹子神社です。社殿のすぐ後が唐臼山古墳。前回のブログの写真に少しだけ写っています。この右手に案内板があって、外交・華道の祖神とあります。外交のほうは、遣隋使で有名で、日本史の教科書に必ず載っています。607年に遣隋使となり、翌年帰国。その年608年にもう一度隋へと渡り、609年に帰国しています。隋書・倭国伝に「日出ずる国の天子、書を日没する国の天子に致す、恙なきや、云々と」という有名な文句が出てきます。隋の皇帝煬帝は、「之を覧て悦ばず」、「蕃夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と外交事務担当官(鴻臚卿)に言った。翌年に裴世清を日本へ使わしますが、裴世清は文林郎(文史を選録する秘書官の属官で、地位は低く、日本の階位では三十階中の二十九位でした。608年に隋に小野妹子が渡ったときも、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」(日本書記)とその辞にあり、日本は中国との対等外交を志したのだと、一般には評価されています。中国の皇帝からすると無礼な!との思いがあったのですが、ともかく東夷にあたる日本にも使いを出したのは、当時の国際情勢、とくに朝鮮半島北部で強大な勢力をほこっていた高句麗の動向が影響していたようです。古代の歴史をたどると、日本国内の動きだけを見ていては理解できないことが多く、東アジアの政治情勢とまだ統一国家とも言い切れない部分をのこしているヤマト政権とアジアとの関係を考慮しなければならないようです。案内板には、外交官、駐在員が多くお参りに来られるとあります。

 外交との関連で小野妹子神社へのお参りというのは歴史の教科書的知識からわかるのですが、華道の祖というのは、この小野の地の神社ではそれほどわかりませんが、案内板では、華道の創始者として池坊家元から免許の授与が受け継がれているとあります。

 これは大阪府太子町にあるもうひとつの小野妹子の墓に行きますとわかります。そうでなくとも、池坊流華道の免許をもっている人には常識なんでしょうが。