前回にも書いたが、いまでは小野神社は崇道神社の境内のなかにあるような形になっている。鳥居のところからまっすぐに社殿までの参道が続いている。鳥居の文字は「崇導」神社となっている。京都市の解説板では「崇道神社」。したがって地図も両方が混在している。歴史書では「崇道」である。
この解説文にあるとおり、平安京の初代天皇である桓武天皇の実弟である早良親王が、長岡京への移転の中心的役割を担っていた藤原種継暗殺の嫌疑をかけられて、淡路島にながされる途中に飲食を断って死亡した。その後解説板にあるようなよろしくない事が続いておこり早良親王の怨霊のしわざだという噂がひろまった。そこで崇道天皇という追号をおくり、怨霊を鎮めるためにたてたのがこの神社である。この「話」は知っていたが、神社の場所は知らなかった。小野一族の関連で、ここにやって来て、崇道神社はここだったのかと分かった次第。
天皇の血筋からも興味深いことが書かれていて(解説板には直接的に表記していないが)、光仁天皇は白壁王、62歳のときに天皇になった。天智天皇の血筋。桓武天皇の母は高野新笠、朝鮮渡来人系の人である。天武天皇の皇統は光仁天皇の前で絶えた。その昔、天智天皇の系統と天武天皇の系統は対立し、大津宮をめぐる壬申の乱という事件が起こった。歴史的観点からすると、長岡京、平安京へ都が移る(移す)というのは、天皇の血統をめぐる対立が背後にあったとも言えるだろう。
こちらの旗は「崇道神社」となっている。
人気(ひとけ)がまったくなく静かであった。暑い日で、手水として使われる水が山から引いてあった。しばらく手を冷やして一休みした。