流域圏と景観の概念

樋口忠彦『日本の景観』は、第一章では自然景観と意識との関係を扱い、第二章では日本の景観のフィジカルな構造を扱っている。(この本の、目次の章立ては漢数字、柱はアラビア数字で記載しているので注意。)第二章の「はじめに」のところは、短い箇所だが、重要な視点が提示されている。そして、このフィジカルな構造の分析の先駆けとして著作ではまず志賀重昂の『日本風景論』が挙げられている。フィジカルな構造ととりわけ言うべきなのは「もののあはれ」的風景論に対して日本の風景の扱いかたが、明治以前の旧来のものと全く違っていたということが強調されている。文人の紀行文のようだが、紀行文ではない。志賀が札幌で学んだアメリカ式の自然科学的な見方を、日本の自然=日本の風景に対して適用したものが『日本風景論』だった。幕藩体制の「お国」自慢的な風景論から、近代の「日本国家」の風景論へと飛躍するには、国際的な日本国家の自然科学的な位置づけがまずは必要だったことがわかる。樋口の言う「フィジカル」という用語は、用語としての「近代性」を表している。

 先日の梅棹忠夫『文明の生態史観』、中尾佐助・上山春平『照葉樹林文化』にも「はじめに」で触れているが、これは飛ばして、「流域圏」という概念にここで言及している。流域圏は三全総で提出された概念である。「日本人の居住の場をまとまった単位として捉えるのに非常に便利な概念」だと樋口はいう。流域圏については岸由二が提唱し、三浦半島の小網代の流域圏をモデルケースとして紹介している文章を読んだことがある。魅力的な考え方だ。

 三全総での流域圏概念の提出理由は、日本国土が分水嶺で流域に分割されていること、その流域ごとに特色ある地域社会が形成されている。水系の総合的管理、流域の生態系、環境容量の維持、要するに国土管理の考えから(官の省庁の観点からして)、流域圏概念が提出されたようだ。魅力的な概念だが問題もあると樋口は言う。その問題点とは、「景観」の視点から述べられる。(これについては、あとで・・・)

 かくも魅力的な「流域圏」だが、2019年の台風による水害をみても、国土「管理」はむずかしい。管理が一見したところ、進んでいるように見えるところで、水害がおこる。岸由二の本にも中流下流の住宅地の河川の氾濫がおきるのはなぜか、その対策をするためにも流域圏の概念が必要だと述べられていたように思う。「水」に焦点を絞れば、ここには住んではだめだろうというようなところにも、「管理」がいきとどいて住むようになっているところもある。

 景観を見る目というのは、さまざまな目的についての適地を見る目でもあるだろう。