大和国の四つの水分神社を訪ねて

 昨年(2019年)に大和国の四つの水分神社を訪ねた。実際は、あちらこちら立ち寄って、四つ以上の神社に行ったことになる。都祁では2カ所(都祁水分神社と都祁山口神社)。宇陀では3カ所(宇陀水分神社の上社、中社、下社)。御所の葛木水分神社のときは大阪側(河内側)の建水分神社にも訪れた。吉野の場合は、もとあったという青根ヶ峰の登頂を果たせなかったことが心残りである。

 この四カ所の水分神社を訪れてみて、あとで現在の水系を地図でみていたら、葛木水分神社の水系だけが奈良盆地に注いでおり、あとの3カ所の水はいずれも奈良盆地には注いでいないということに気づき、これには驚いた。

 当然のことながら、奈良盆地の水事情はどうなっているのか? という疑問が湧いてくる。過去の水事情も問題となってくる。奈良の水事情については長い歴史があるようだ。

 そこらあたりの疑問を晴らしていくきっかけになったものの一つに「盆地」というキーワードがあった。奈良盆地はたいへん大きな盆地である。周りの山からの川はいずれも短い。直観的に水不足になるのではないかと思ったが、いくつかの見方からするとその通りであった。

 「盆地」という言葉には、最初は景観論的な見方から接近していた。都祁、宇陀を訪れたとき、「水分神社」型景観は「盆地」の景観と同様のものとして見ることができる、と樋口忠彦『日本の景観』にはあったし、その通りだと思ったからである。「盆地」というキーワードがあって、昔に読んだ米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』岩波書店、を思いだした。再度読んでみて驚いたのは、米山氏は「大和高原」の都祁に生まれ、都祁水分神社の氏子であったと書かれていたことである。昔読んだことはきれいさっぱり忘れていたが、「盆地」という言葉だけでも憶えていて、思い出したことはよかったと思った。

 景観論というのは地形と密接に関係している議論である。景観と風景と区別する議論もあるが、ひとまず風景と言ってもよいであろう。

 建築家の山本理顕は、東大の原広司研究室にいたとき、世界の集落調査に携わった。やりかたは四駆をひたすら走らせて、集落を見つけるという方法だったという。この方法でどこにも負けないだけの数の集落を調査したという。この方法でクルマを走らせていると集落がある場所が地形でだいたい分かるのだという。そして発見されたその集落はほとんどが美しい集落であると言う。地形に沿った生き方をしているひとびとがつくりだす集落の普遍性というものが見えてくるようだ。