藤原惺窩は59歳で亡くなった。現代の通念からすると「早い」が、「後年の」あるいは「晩年」の惺窩は、京都洛北(左京区静市の市原町)に山荘を構えて、そこで学問に励んだ。石柱の刻字にあるように「此付近」として、児童公園がその跡と比定されている。
石柱の側面に、「昭和四五年三月 京都市」とある。
京都市左京区静市市原があるところは、鞍馬街道に沿ったところ。「洛北」とあるが、下鴨あたりでも洛北と言うのに比して、岩倉よりもさらに山奥にあたる。江戸時代では文字通り山荘という名にふさわしい土地だったことだろう。今は叡山電鉄鞍馬線が通り、市原駅という駅も近くにある。昔鞍馬へ行くとき乗ったときは「京福電鉄」といったはずだが、「叡山電鉄」となっている。
公園の名称は「北市原第二児童公園」である。上の写真では、消火器の後に石柱が写っている。回りは住宅地。ただし山が迫っている。
別の方向から見ると、山が迫っているのがわかると思う。ここに行くには上の児童公園の名前でで検索して、地図で確認してから行かないと、場所がよくわからないだろう。京都の洛中からは相当離れている。惺窩の教えを聞くために弟子たちは、ここまで歩いてきたのだろうか、それとも惺窩が洛中まで出向いて講義をしたのだろうか。多くの優秀な人物が惺窩の門下から育ったので、こんなことが山荘跡に来てみて、気になった。