西国街道から少しはずれて、現代の街道である国道171号線に出る。171号線も京都から神戸へと至る街道であるから現代の西国街道とも言える。ところがクルマに乗って移動していると、この「ぼろ塚」の道標はまず目に入らない。あらかじめ「ぼろ塚」というものがあるという知識がないとここには来ないだろう。
左手に勝尾寺川が流れており、ここはせき止めらているから水が多い。鴨が2羽浮かんでいる。
作業場のような建物と川との間の狭くなった通路を抜けるとぼろ塚がある。電柱のふもとに見える石がそれ。
ぼろ塚と書いてあるらしいが読めない。読むには困難。くずし字の知識もいるようだ。もともと此の場所にあったのではなく、ここから少しはなれた柿の木のもとにあったと伝えられているようだ。そばには新しくなった説明板がある。
古い説明板を載せた解説もあるが、これは茨木市教育委員会が設置した新しい説明板。『徒然草』第百十五段にある「ぼろぼろ」の決闘の話が元。「ぼろ」は梵論、「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字などと云ひける者」(岩波文庫、196頁)とある。岩波文庫の注(西尾実・安良岡康作校注)には「ぼろぼろ」とは「非僧非俗の無頼乞食の類で、徒党を組み、山野に放浪した類いの人々。後世の虚無僧とは区別される」とある。
説明板にあるように「しら梵字」というぼろと「いろをし房」というぼろとが「対面し」決闘した。「しら梵字」の師匠が「いろをし房」に殺されたというのでその恨みををはらさんと尋ねあるいていたのがここで出会った。「前の河原」で「心行くばかりに貫き合ひて、共に死にけり」と『徒然草』にはある。解説板のようには具体的な刺しところまでは書いていないが、そのように伝わっている話もあったのかもしれない。
「宿河原」という土地は、岩波文庫の注では川崎市の宿河原であるとしている。川崎ので話なのか、茨木の「宿川原」なのかは、両説あるが、京に近いし、茨木の宿川原のほうが兼好法師が聞いた話と自然であろうと思う。両説の元になった文献が入手できないので両説の根拠についてはなんとも言えない。ちなみにこの石碑は江戸時代に設置されたものだったと記憶している。
勝尾寺川の左岸に小林製薬の中央研究所があって「アンメルツヨコヨコ」の文字が見える。肩がこったときにときどきお世話になっています。