前回にもあげた「水神社」(すい)。案内板ももう一度。
この案内板でまず気になるのは道祖神社所在地の「高浜町四〇三番地」。現在の番地ではなく、ネットのマップで検索しても出てこない。おそらく昔の地名番地なのだろう。
さらに気になるのは、水神社の祭神「はにやすひこおおかみ」「みずはのめおおかみ」に並んで、高島伊太郎命という名前が挙げられていること。実在したであろう個人名が古代の神名とともに掲げられているのはどうしてかという疑問がわく。しかも明治十二年に遷座とある。なぜこうなったのかは、近くに茨木みのり幼稚園というのがあって(1キロほど離れているが)、そこのホーム・ページにだいたいのことはわかる。もとは『わがまち茨木 人物編』茨木市教育委員会、昭和60年3月、85~86ぺージの「高島伊太郎」の項目を参考にしてほぼそのまま書いてあるので高島伊太郎という人がどのような人物だったかはわかる。執筆は、(故人)岩城光之助筆、協力高島信義、『浪速文叢』第3号より転載、とある。簡略に事蹟のみピックアップして記しておく。
水神社。明治12年建立。地区は茨木川安威川の下流にあり、両川の排水路の神崎川の増水で周辺の田畑に雨水が停滞、全面湖水の如し。地区区長の高島伊太郎は府に改修を要請。明治11年改修始まる。政府・地方とも、公費なく高島は私田50町歩余、刀剣、鎧、兜、家宝を売り費用に充てた。
明治12年感謝の結晶として社殿をたて高島を祀った。
と、このような内容が記されている。当の高島伊太郎の写真も掲載してある。たいへん意志の強そうな風貌の写真である。
もうひとつ、高島好隆『私本 いばらき風土記』1987年、「いばらき地名を守る会」茨木支部発行という本があり、水神社の地番の事情も書いてある。これも要点のみを記すと以下のとおり。
河川改修の竣工式に、「はにやすひこ」、「みずはのめ」神を祀った。神官を多数招いて式を行った。花火も上げた。(竣工年の記載は? 誤植か)
浜村では、12年この水神を勧請した。道祖神に並べた。すぐあとに伊太郎は死去、合祀しようとしたが政府に遷座を命じられ403番地宅地73坪拙家の私有地という屋敷神のかたちをとった。「水神社」の額は知事渡辺昇の揮毫。
当時の知事は高島伊太郎と昵懇だったとのこと。
政府から合祀はならぬとされ、屋敷神のかたちで祀ったとある。どうりで地番が合わないはずだ。またなんで並んでいるのか、高島伊太郎という個人名が古代の神名と並んでいるのはなぜか、ということもだいたいわかる。普通は顕彰碑というところだが、湖水のようにもなる地域の排水の為の改修を私財をなげうって実行し、神のように思われたのであろう。
上に「高島信義」という名があがっているが、伊太郎の子孫。高島信義氏の名前は、茨木文化財資料館の裏手にある土蔵がもと高島家の土蔵であり、市に寄付され、保存されているので外観を見ることができる。
水神社と併せてこの高島家土蔵を見ると、さらにこの地域のことがわかるような気がする。