大和川付け替えと新田・会所

1704年(宝永元年)、徳川幕府大和川付け替え工事に着手した。これが2月。10月に竣工している。じつに短期間で竣工している。前年の1703年(元禄十六年)に、幕府は播州姫路藩主本多忠国に大和川改修工事の助役を命じている。(「以後、大名御手伝いによる河川普請例頻出」)付け替え竣工後の、1705年(宝永二年)に、幕府、大和川筋の開拓を企画、鴻池、菱屋ら豪商が開発に参画し、08年ごろまでに千余町歩の新田ができる。以上は、『日本史年表 増補版』(岩波書店、1993年)から。

昔、杉本町から南へ、大和川の鉄橋を電車で渡っていくとき、大和川が付け替えられたということは知らなかった。付け替えの結果のひとつとして、大規模な新田開発が行われ河内のありさまは大きく変わった。大阪東部の地図を見ていて、「川中」などという変わった地名があるなと思っていたのだが、大和川付け替えの歴史を知ると納得できる。新田という地名は今も残っている。会所趾は「趾」だけがのこり、直ちにはそれとはわからない。ここも「開発」された。

資料館の図には、「東本願寺・難波別院」も新田開発に参加した、と記述してある。さきの浄土真宗のひろがりに対応したものであろう。

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大和川付け替えと新田、会所