2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

三好氏勢力図(三好長慶の盛時)

三好長慶が飯盛城に拠点を構え、機内を支配したころの勢力図である。『もういちど読む山川日本史』初版14刷(2011年)では、勢力範囲のところに他の戦国大名の勢力図と並び、三好氏が四国(阿波、讃岐)と機内の和泉、河内、摂津をおさえた図が掲載されてい…

平安時代の京都、大阪、奈良交通図

平安時代の京都、大阪、奈良の交通図。ちょっと地図のかたちが変わっているようだが、京都と大阪、奈良に置かれた都の位置関係がわかる。長岡京、恭仁京、藤原京と平城京、難波京、平安京の位置関係はこのようになるのかと、あらためて地図を眺めてみたくな…

奈良時代の大阪河内平野の条里制

古墳時代に続いて、奈良時代。河内平野の条里制の地理図。難波宮があり、河内の条里制がどのようになっていたのかが図示されている。現在の河内、大阪市東部の地図は、いくばくかはこの条里制のあとを継いでいるのだろうか? 最初に大阪の地図をみたとき、区…

古墳時代の大阪地域

古墳時代の大阪地域の地理図。おなじみの百舌鳥古墳群、古市古墳群、三島古墳群の位置が表示されている。中央に河内湖がある。大東市域では堂山古墳群。これだけの古墳を築くことができるだけの権力と財力が、この地域に集中していた。丘陵地、台地のあるあ…

河内湖の時代(弥生時代)

縄文時代につづき弥生時代になると、河内湾から河内湖へと呼び方が変わる。といっても地理図では、海と河内湖はつながっている。大東市地域の遺跡が詳しく表記されているが、他の地域の弥生時代の遺跡もあちらこちらにあることがわかる。そしてその遺跡のあ…

古河内平野、河内湾の時代(縄文時代)の地理図

日本列島が大陸から離れ、縄文時代には温暖化で海面が上昇した。縄文時代の河内は河内湾と呼ばれる海が広がっていた。縄文海進と言われる現象ですね。これから温暖化になると、縄文時代と同じようなことになり、ふたたび河内湾が出現するかもしれない。今生…

河内の古代地理図(旧石器時代)

大東市立歴史民俗資料館の常設展示で、たいへん興味深い図が展示してある。古代(歴史以前)から現代までの河内地方の地理の様子がどのように変化してきたのかを説明する図である。河内の北部はとくに陸地になったり海になったり低湿地帯になったりしたこと…

大東市立歴史民俗資料館

野崎観音の上り口から旧高野街道を少しだけ南にゆくと大東市立歴史民俗資料館がある。資料館は「来ぶらり四条」(歴史とスポーツふれあいセンター・東部図書館)の総合的施設内の2階(常設展示)、3階にある。写真は建物の裏手になるのだろう、ちょっとこれ…

東高野街道(野崎観音前)

JR野崎駅から歩いてきて、野崎観音の上り口にさしかかるところで、東高野街道がクロスしている。旧高野街道は、京都方面から生駒の山裾を通り、高野山へ向かう道。「東」というからには「西」があるはず。「西」の高野街道は、大阪の上町台地を通っている。…

降りの石段(野崎観音)

野崎観音の降りの石段。降りて行っている人たちは皆、韓国語を話していたので、韓国からの観光客らしい。大阪中心部だけでなく、郊外の野崎まで外国の観光客が来るようになっているのかと感慨を新たにする。日本人の私は、寺の名前や、野崎という地名は知っ…

南條神社社殿

慈眼寺の境内の一角に南條神社の社殿がある。寺の山門を入って左手。なぜ「南條」という名なのかというと、「野崎」の北に「北条」(北條)という地名がある。この北条(北條)村に対して「南條」(今の「野崎」)村があり、南條村の村社が南條神社であると…

お染久松の塚

紫蘭の咲いているところの木陰で休んでいると、参詣者が奥の墓のほうに行く。なにがあるのだろうと行ってみると、お染久松の字が刻まれた塚があった。歌舞伎の野崎村のお染久松の別れの場面で有名なお染久松は、なるほどここにあったのかと納得した。 久松は…

新緑の慈眼寺石段参道

新緑の慈眼寺、石段の参道。上を覆う木は櫻。新緑というより、すでに緑が濃くなっている。日の光も夏の日のように強く、木陰に入るとほっとする。竜宮門の漆喰と木々の緑のコントラストが美しい。 慈眼寺の竜宮門

高台のお家

高台のお家 「野崎観音」への指示標から坂道を登ると、こんなお家が見える。屋根のかたちからすると民家のようだが、茅葺きの勾配をしていて瓦葺きのようで、ちょっと変わっている。高台にあって見晴らしがよさそう。生け垣のなかは見えない。庭でもあるのだ…

野崎観音への回り道指示標

山の麓の古くからの道を通るまわり道に、野崎観音への道標がある。急な石段ではなく坂道だが、けっこうこれも勾配がきつい。中腹にお堂がある寺ではだいたい女坂と呼ばれる坂道があり、ここもそこへの指示が大きな字でしるされている。看板だけではなく、石…

牡丹に蜂

野崎観音への参道のにぎやかな人通りから回り道を通る。この道は旧高野街道だったのかもしれないと思う。とあるお家の庭先に牡丹の花が咲いていた。蜂がやってきていた。花がいっぱい咲く時期だから、蜂も蜜を集めるのに忙しい。 最初はボタンの花と思ったの…

金魚すくい

野崎観音への参道には出店が石段下までならぶ。金魚すくいは出店の定番。裏からのぞくと赤い色の魚はいない。メダカか、あるいは和金の黒か、おたまじゃくしのようなかたちの小さい魚が泳いでいる。小さいだけに掬いやすそうで、おわんのなかには、けっこう…

〽野崎まいり

野崎まいりの期間中、東京大衆歌謡楽団が二日間、野崎観音で野外演奏をおこなった。もちろん〽「野崎まいり」も歌われた。ステージの前には多くのひとがあつまり、手拍子をとったり、おどったりで大いに盛り上がった。天気は快晴、日のひかりのもとで、演者…

深野南新田切図(明治19年)

写真は大東市蔵の「河内国讃良郡深野南新田切図」。昨日と同じく平野屋新田会所市民サポーター会議のパンフレットから。いまの大都市の真ん中の部分が新田として開発されたという図である。明治19年の図であるから、池が田畑となって新田らしくきれいに整地…

深野池(大東市)

大東市の歴史民俗資料館にあった「新田の歴史と遺産」というパンフレットには、かつての池、水路、川の様子が描かれている図が掲載されている。その中から「大和川付け替え工事概略図」を紹介する。300年前に大東市の基礎が作られたということなのだ。川、池…

「慈眼寺と野崎まいりの歴史」展示(大東市)

2019年4月13日から5月26日まで、大東市立歴史民俗資料館で「平成31年度春季展」として「慈眼寺と野崎まいりの歴史」の展示がされている。チラシは写真のとおり。チラシの絵には、舟で野崎まいりに行く人びとと、土手を歩いて行く人びとの掛け合いが描かれて…