2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧

住吉神社(住道)

住道はもとは角堂浜(すみのどうはま)と言った。今は恩智川と寝屋川の合流地点に祀られている。JR住道駅を下車、デッキのところへ出るとそれはそのまま川の対岸に渡る橋になっている。橋の途中に右手に川の合流地点へとゆるやかに降りてゆく小さな橋があり…

三箇大橋(の下部)

恩智川の方向にもどると新しい橋が見える。車道、歩道がわかれていて、川を渡り、恩智川に沿って道も通り、分岐もあるので複雑。橋の下に新しい石碑もある。読むと計画から約40年以上も経て、この橋の架け替えが完成したとある。住道地区の最後の河川改修工…

旧吉田川跡(北端)

八幡神社のところからJR線に沿って住道方面へ歩いてすぐに、南側に旧吉田川跡がある。そうだと見なければ、ただ刈り込んだ生け垣があるだけの風景。ここは大和川の支流だった吉田川が深野池に流れ込んでいた場所。ここから南の吉田(東大阪市の花園ラグビー…

八幡神社狛犬と神社縁起

写真は狛犬の後ろ姿から見たもの。台石に「團野氏」と彫られている。「御供田」はその昔「團野村」と言ったという。團野氏は、この地の名家だった。石清水八幡の社領(御供田)だったことから、「御供田」という地名となったという。 神社縁起には、源義家の…

八幡神社(御供田)

白壁の蔵のすぐ近くに八幡神社がある。遊歩道からは、神社の裏側しか見えない。ちょっと見てみようと南側へとまわる。神社の建物、石の鳥居は新しい。だが、由緒は古い。「御供田」という土地の名称がなぜついたのか、その由緒書きも神社に掲げてある。(神…

旧恩智川(御供田地区の雨水貯留施設)

恩智川を住道方面に渡ると、左手に緑地が見える。そこが旧恩智川の川床で、今は雨水貯留施設となっているところ。川床は遊歩道となっており、土手にはいろんな植物が植えてある。川筋を変えて埋めることはせず、雨水を貯めるところとしてつかっているのは、…

恩智川

古堤街道を住道の方向に歩いてゆくと川に突き当たる。川を越える車専用の道路があるが、歩行人、自転車専用の橋がかかっており、それを渡る。渡るとき何という川だろうかと思ったのだが、渡り終わったところに案内絵図があって恩智川だとわかった。写真でわ…

大東市マンホール図柄(野崎まいり)

古堤街道を歩いていて、ふと足元のマンホールを見たら、野崎まいりの図柄になっていた。昔の絵図から構図をとってきている。細部は絵図そのままではなく、少し変えてあるようだ。野崎観音の竜宮門があったり、大東市のマークが舟の帆柱にひっかけてある笠の…

農民感謝碑

平野屋新田会所跡の土蔵礎石のある所の北側に隣接している、小さな密林状態となっている場所がある。小学校のところから橋を渡ってすぐの所に石碑がある。農民感謝碑で、「明治18年と22年の大水害時に、地主高松氏や支配人による救済活動に対し、農民が感謝…

平野屋新田会所跡(跡地の一部)

平野屋新田会所は約2400坪あったそうだ。立派な長屋門、本屋、土蔵、などがあって、「新田」開発の様子を伝える歴史的に重要な場所だった。いまは坐摩神社と跡地の礎石が一部残っているくらいだ。船着き場の石段もあったが、いまは調査のうえで埋め戻されて…

坐摩神社(平野屋新田会所跡)

街道らしくない道をひたすら歩いて、国道170号線(新)を渡り、西へ。この道でいいのだろうかと思いながら歩くと、「坐摩神社」と彫ってある石柱がある。歩く方向によっては見落とすかもしれない。道の北側、奥のほうに行くと坐摩神社(いかすりじんじゃ)が…

東高野街道から古堤街道へ

東高野街道を南下する。大阪産業大学のところを通り抜け、道が少し狭くなる。すぐに石柱がたっている道路と交差する。生駒の山の方を見るとなんとなく旧街道のような気もするが、よく分からない。おそらく古堤街道だろうと右手の方向に(西の方向)にゆく。…

東高野街道=国道170号線(旧)

大阪生駒線(府道8号)を越えて少し歩くと、国道170号線(旧)と合流する。合流地点に「東高野街道」の標柱がある。それまで歩いてきた東高野街道とは、まったく道路の雰囲気が変わり、こういう標柱がないと旧街道であることがわからない。人が歩く街道が、…

東高野街道の郵便ポスト(大阪生駒線の近く)

東高野街道を南にゆく。もう少しで大阪生駒線というところに軒先に赤いポストと切手、印紙類販売の看板が下がっている家がある。ポストは四角くて使われているのだろうけれど、切手なぞは売っているのだろうか? まだ小さいときに街角でよく見かけた家のたた…

メノコ橋の欄干

大東市歴史民俗資料館のところから、東高野街道を南下するとすぐに「メノコ橋の欄干」がコンクリートの上に並べてあり、となりにその説明板がある。詳しい内容はその写真の説明を読んでもらうことにして、昔ここには井路があり、橋が架かっていた。その石の…

野崎まいり舟運の図

ようやく野崎詣りの、大坂からの舟運の図が登場する。今の野崎のところからは本当に舟が行き来していたのかと疑問になるが、いまでも「津」のつく地名が残っている。大坂の八軒家浜から徳庵、住道を経て、観音浜までの水路があった。八軒家浜はいまも大阪の…

大和川付け替えと新田・会所

1704年(宝永元年)、徳川幕府は大和川付け替え工事に着手した。これが2月。10月に竣工している。じつに短期間で竣工している。前年の1703年(元禄十六年)に、幕府は播州姫路藩主本多忠国に大和川改修工事の助役を命じている。(「以後、大名御手伝いによる…

浄土真宗のひろがり

浄土真宗のひろがり、と題された図である。どのように拡がっていったのかは、この図からはわからない。おもしろいことに三好長慶の臣下の三箇頼照が熱心なキリスト教の信仰者であったことが記されている。河内でのキリスト教信仰がどのようなものであったの…