随心院の建物(庫裡、玄関、本堂をのぞむ)
随心院の由来は、弘法大師から八代目の弟子にあたる仁海僧正による牛皮山曼荼羅寺という寺の建立がもとになっている。西暦991年のこと。このちょっと変わった寺の名前は、仁海僧正の亡くなった母が牛に生まれ変わっている夢をみたことから、牛を飼っていたところ、その牛が死んだので、牛の皮両界曼荼羅を描き本尊としたことに由るという。
また仁海僧正は密教の呪法にすぐれ、神泉苑での雨乞いの法を九回行い、いずれも雨が降ったので雨僧正と言われたという。
その後、第五世の増俊阿闍梨が曼荼羅寺の「子房」として随心院を建立した。西暦1229年、後堀河天皇から門跡の宣旨をたまわり、随心院門跡となる。
七堂伽藍が整備されていたが、承久応仁の乱により灰燼に帰す。その後、西暦1599年に本堂再建、九条二条両家から門跡が入り、再建された。(以上、随心院パンフレットからの摘要)
ということなのですが、現在の寺域も広く、後の林のなかには金堂跡の石碑もあるので、昔はもっと大きな伽藍を誇っていたのでしょう。
庫裡入口のところには、小野小町の「花の色は~」の歌碑があります。
このそばに謡曲「通小町」の説明板もありますが、よく知られていることなので省略しましょう。
庫裡から入りますと、予想していたより建物が多く、それをつなぐ廊下をわたっていきます。撮影禁止のところ(重要箇所)もありますから、これは実際に拝観するのが一番です。
ここは庫裡の裏手の廊下です。写真では黒くつぶれていますが、鐘と板がぶらさがっています。
廊下を順路指示のとおりにたどってゆくと、仁海僧正の像の写真が掲げられています。
ところどころの板戸には絵が描かれています。これは双鶴とでもいうもでしょうか。ちょっと薄暗いところに白い鶴がいるのが見えて、印象に残ります。ともかく建物が広いので「鶴の廊下」といえば、あそこ、とすぐわかるという便利なところもあったのではないかと推測します。
駕籠が吊り下げられている薄暗い廊下から、この大玄関から薬医門をみるところに出ます。光が入り込んできます。この玄関と薬医門は九条家の寄進によるもの。徳川時代家光将軍のころ。
玄関から表書院のほうに向かうと本堂をのぞむことができます。本堂の背後は木立。余計なビルなどは見えないのでほっとします。