小野小町の遺跡(随心院)
随心院には小野小町の遺跡がいくつかあります。寺の建物内にもいくつかあります。小野小町文張地蔵、卒塔婆小町座像、榧の実など。
いったん外に出ると、目の前に名勝「小野梅園」。
この近くから薬医門を見る。
堂々たる門です。寛永年間の建築で、九条家ゆかりの天真院尼の寄進によるといいます。薬医門は桃山期に始まるもののようですが、時期的には合います。そばに行って柱を確認したわけではありませんが。
ここから
文塚には築地塀の外側をぐるりと回って裏手に行きます。敷地が大きいので思いのほか歩きます。文塚は境内の東側の端にあります。背後には民家。
千束の文(恋文)を埋めたということです。竹藪があり、水も多いところですから夏は蚊に襲われ、ながらく留まることはできない場所です。ここで思いをはせたい人は蚊除けスプレーが必要でしょう。
清滝権現もありますが、これは省略して、文塚と清滝権現への道の途中には昨年の台風の跡かなとも思いますが、木造の塀がたおれていました。この右手にはヒノキだったと思いますが、何本も倒れていました。1年近く経ちますが、各地の旧跡でこのような有様をいまだにみかけます。かたずける人手が足りないようです。
化粧の井戸は梅園の横をいきますと、あります。
井戸といっても石段で降りてゆき水を汲むようになっています。こんな浅いところから水がでるのかという感想をもちます。この井戸については、京都市の案内板に要領よく説明されています。
この案内板の説明にあるように、この一帯は小野一族が栄えた地「宇治郡小野郷」であり、醍醐天皇陵の東側から小野寺の遺跡がでてきたということです。
小野という土地は、柳田國男の説では「野」のあり方なのですが、「小野」という氏族とその名が成立してからは、氏族名が土地の名となったのでしょう。
とは言え、小野という土地はどのようなところかというのも気になります。
化粧の井戸のあたりから随心院薬医門をみますと、なだらか傾斜地となっていて、建物の背後には山がみえます。随心院の境内には水の流れが引かれ、傾斜に沿って流れています。日本語の「野」の概念にぴったりの場所であることを確認できます。山背国愛宕郡の小野、近江の小野、宇治の小野、いずれも「野」というのにふさわしい場所に小野という地名が残っています。