神武天皇社(柏原)

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道標(神武天皇社の近く)

 JR掖上駅への道の途中にこのような道標がある。歩き疲れていたし、もう夕方に近いのでちょっとまよったが、神武天皇社だけは見ておこうと指示標の方向へと向かったが、もうひとつ直前の指示が親切ではなく、行き過ぎてしまった。すぐ近くだったのだが・・・。

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神武天皇

 建物は新しく、狛犬と灯籠が横に並んでいる。神武天皇の名前のわりには、比較的小ぶりな建物であることに意外な感じがした。短い参道から入った右手に神武天皇社の由緒書きがある。

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神武天皇社の由緒書き

 この神武天皇社の由来は、この説明板にあるとおりで、祭神は「カムヤマトイワレヒコ」、ここが本来の「畝火の白檮原宮」(古事記)で、「天の下治らしめしき」場所であるということである。本居宣長の記述と、ここが「柏原」であるとの証拠となる文書類は、明治になりここが宮跡になると住民の転居が強制されるので焼いてしまったとされ、それにより宮跡の指定とはならなかった。新しく橿原神宮が作られた経緯については、高木博志の研究論文がある。(高木博志「近代神苑試論――伊勢神宮から橿原神宮へ――」『歴史評論』573号、1988年1月号)この論文を読んだとき文書焼却のことが触れられていたように思う(記憶にあるのだが、別の論文だったかもしれない)。ここでその経緯を再び読むとは思わなかった。

 この説明板の後半部で、神武天皇が大和平定後、前の后から三輪の大物主神の娘へと後の后を乗り換えたため、前の后の怨念が夫婦の縁を呪うとされ、婚礼の際には「ほほま神社」(神武天皇社の南方にある)の前を通るのを避けたという話が紹介されている。神武天皇にまつわる話が土俗的な話として残っていることが興味深い。