丸山大明神

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丸山大明神

 「住吉の長屋」を見てから、近くをうろうろしていたら「丸山大明神」という「大」が付いているものの小さな祠があった。このほこらの前が「丸山の庭」と称されている2畳分くらいの「広場」がある。広場と書いたのは、住吉区のガイドに「丸山大明神の前部分の敷地に、HOPEゾーン事業の施設整備としてコミュニティ広場(丸山の庭)が造られている」とあるからだ。鳥居のすぐ前で、広場とはとても言えないようなところなのであるが。そこに丸山大明神の説明書き、広場の説明書きがある。

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丸山大明神と広場の説明書き

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丸山大明神と広場の説明書き

 字が小さくて読みにくいが、その内容は兄であった後の履中天皇と対立して殺された墨江中王(住吉仲皇子)が祀られていると書いてある。難波と住吉の二大勢力の対立と書いてあるが・・・。ガイドのパンフレットには、弟の住吉仲皇子が難波宮を焼き、三日天下だったともあり(これを説明書きは難波勢力との対立と説明しているようだ)、また刺客に厠で殺され、沼地に捨てられたとある。ほかのパンフレットでも「厠で殺された」とだけ書いてある。脱力感の最中か、いきんでいた最中か、どちらにしても皇子としてはみじめな死に方である。しかも死体が沼地に捨てられたとある。

 どういうことなのだろうかと笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)にあたってみた。そうすると第十七代履中天皇の項にこの対立事件がかなり詳しくとりあげてある。以下、笠原の記述による。

履中天皇の父は仁徳天皇日本書紀には去来穂別天皇(いぎほわけすめらみこと)とある。仁徳天皇崩御し、去来穂別皇子が即位することとなった。即位に先だち、羽田八代(はたのやしろ)宿禰の娘、黒媛(くろひめ)を妃に迎えようと、弟の住吉仲(すみのえのなかつ)皇子を派遣した。ところが仲皇子は自分を皇太子と偽り、黒媛を姦した。翌日、太子が黒媛のもとと訪れた際、仲皇子が残した鈴から所業が発覚し、そこから仲皇子は太子を葬り去ろうとした。(中途の話を略して)時期は、古事記では大嘗祭の時期で、太子は酒によって事態が分からず臣下が馬に乗せて連れだし、河内にいたってようやく目を醒ました。そのあと弟の瑞歯別(みつはわけ)皇子にも疑いをかけ、潔白を証明するなら仲皇子を殺せと命じた。そこで仲皇子の側近にいた隼人の刺領巾(さしひれ)(古事記では曾婆訶里[そばかり]という隼人)をそそのかし仲皇子を殺害した。曾婆訶里は王が厠に入るのを伺って、矛で刺殺したと古事記にはある。笠原著には「厠」での刺殺の件は書いてない。仲皇子を刺殺した刺領巾(曾婆訶里)も瑞歯別(みつはわけ)皇子により酒席で殺されてしまう。

 少々、本により異なる記述はあるが、だいたいこんな話である。丸山大明神に祀られている人は、天皇家の系列の人ではあるが、なるほどこれなら大々的に祀ることもできなかったのだと分かる。こうやって小さな「庭」ができたのだろう。丸山というのは円塚が築かれていたから、こういう名前がついた。