奈良盆地は湖だった

 奈良盆地は湖だった。表題通りですが、現在の奈良盆地の水の出口は大和川への峡谷しかありませんから、素人考えでも奈良盆地は湖状態だったのではないかと推測するできるでしょう。どうもその通りだったようです。では、その湖はどれくらいの大きさだったのかというと、そんなことは観光案内書などには書いてありません。たまたま手にとった上田篤『呪術がつくった国 日本』光文社、2002年、に日本書記の伝説の解釈とともに書いてありますので、呪術がらみの話はさておいて、湖の水の高さについて引用しておきます。

 まず約6000年前までは、水面の高さは標高約70メートルほどあり、現在の「山辺の道」のあたりが湖岸線だったそうです。2500年ほどまえの大和川峡谷の亀の瀬で断層による陥没がおき、水位が50メートルほどに下がった。いまの奈良盆地の標高は、一番低い王子付近で30メートルくらい。約2500年前から20メートルほど水位がさがって、湖がなくなった。こういうことらしい。

 約2500年前というと、前4~3世紀ごろ、「北九州に稲作と金属器をともなう弥生文化が成立する」と年表(『日本史年表増補版』岩波書店)にありますから、稲作成立より少し前ころとなります。中国の歴史でいうと秦の始皇帝による統一が前221年ですから、それ以前の頃となります。

 3世紀後半から4世紀初にかけて、奈良盆地に大王陵クラスの前方後円墳が集中すると日本史年表にはありますが、このころには水位がさがりつつあり、盆地のあちらこちらに湖水、池水がたまっているような状態だったのではないでしょうか。そうしますと「豊葦原国」という表現がぴったりとするような土地の状態が、奈良盆地にはあったということになります。

 多くの湖水、池水を「み」(水、海)と言ったのも不思議ではないでしょう。その「みぎは」(汀、水[み]の際[きは])には葦が盛大に生えていたことでしょう。

 「とよ」(豊)というのは、接頭語、「とよみ」(響・動)と同根。本来、雷の音のように響きわたる音を表す擬音語。転じて、あたりに音が満ちあふれるように感じられる豊作の感動をいう語。豊作、豊富の意。また雄大の意。それで「豊葦原」は、「トヨは豊穣の意。古代、水辺に葦の茂ったさまから」。『岩波古語辞典』(初版)にはこのように載っています。

 この言葉からは、古代の人々が雷鳴のような感動をもってこの地を讃えたということが伝わってきます。