金山媛神社から坂道をさらに登る。傾斜がきつくなってきた。別れ道を広い道のほうにとってみて登ると「雁多尾畑」というバス停と農協の建物が現れた。大きな寺の屋根が見える。あれが松谷御堂だろうと、細い道を歩くと石段と門の前にでた。
堂々たる構えの寺である。「御堂」というからには真宗だろうと推測していたが、その通りだった。でもなぜこの山中にとも思ったが、元は天台宗の寺ということである。
門前に松谷御堂の由来が書かれた案内板がある。この案内はここの地名を考えるにあたって、たいへん参考になると思うものである。
元は天台宗の寺院だった。南都北嶺の戦いとあるが、これは延暦寺と興福寺の僧徒が争ったこと。これは清水寺別当補任をめぐる争い。狼藉・強訴を繰り返した。このあおりで寺が焼かれ、雁林堂(がんりんどう)だけが残ったことが書かれている。天永四年とあるが、この年の7月から永久元年に和暦が切り替わっているので、南都北嶺の戦いは「永久の強訴」とも呼ばれているようだ。
その後、園城寺の僧俊園が雁林堂の本尊を拝み、感涙し、光徳寺を建立。また親鸞の念仏門に入り、寺は松谷御堂となった。
そのご、織田信長が土地を没収、慶長19年(1614年)に和泉守が放火し、堂宇が消失したとある。これは大阪冬の陣があった年であるから、そのあおりだろうか。それから百年以上たってから本堂などが再建されたとある。立派な堂宇であるが、苦難の道を歩んできた寺である。
奈良から大阪へと抜ける道にあって、寺の構えを見ると、じゅうぶんに砦として機能する。周辺の家々をみても崖地にびっしりを建て込んでいて、これまた関所として機能する。
松谷御堂の門前の道から、これは大阪方面を見たところだが、こんな風に家が崖地にびっしり。山上にこのような風景を見るとは思わなかった。ここは全く未知のところだったから、この風景には驚いた。