花田清輝「古沼抄」

花田清輝に「古沼抄」というエッセイがある。(『日本のルネッサンス人』朝日新聞社、1974年、所収)その冒頭は次のような書き出しからはじまる。

  「永禄五年(一五六二)三月五日、三好長慶は、飯盛城で連歌の会をひらいていた。・・・誰かが、『すすきにまじる芦の一むら』とよんだあと、一同がつけなやんでいると、長慶が、『古沼の浅きかたより野となりて』とつけて、一同の賞讃を博した。(『三好別記』『常山紀談』)」

三好長慶のこのエピソードは何度読んだことがある。しかし、この「一同の賞賛を博した」というのが、どこが良いのかもうひとつ分からず、そのままになってしまった。

花田の「古沼抄」を読んでみて、芦からススキの野原に変化するというところに意味があるのだな、というところまではわかった。

飯盛城は、野崎観音の裏手のほうにある山城である。三好長慶はこの飯盛城の城主として、また畿内を実質上掌握した英雄でもある。飯盛城からは、北河内から中河内にかけて池や沼の低湿地帯がひろがっていた。ここが新田として開発されたのは江戸時代からである。まさに「古沼の浅きかたより野となりて」というのは眼下に(眼前に)ひろがっていた風景であった。このように見ると、芦からススキへと変化する様をそのまま捉えた歌となる。

こんなことには花田清輝は関心がないわけではないが、もっぱら彼の関心事の「転形期」のありさまを長慶はとらえたのだと論じるのである。

  「中世の暮れ方から近世の夜明けまでを生きた三好長慶は、右の一句によって、かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」(花田、同上書、120頁)。

長慶の一句は「芭蕉の古池よりも、はるかにスケールが大きい」とも言い、また「それは、一つには、長慶の一句が、連歌の一部であるところからもきていよう。そこには、古沼ばかりではなく、古沼の原野に変わるたりまで――そして、そのへんに生いしげっている芦やすすきの群落まで、ちゃんと視野のなかにはいっているのだ。近景から出発して、遠景にいたるまで、焦点深度のふかいレンズで、あざやかにとらえられているのである」と、このような議論を展開し、「焦点深度のふかいレンズ」という表現で、風景を捉えることもしていると言っている。しかし、そのあとは「連歌」という文学形式のもつ共同制作、集団制作の方面へと議論は移っていってしまう。

花田がこのとき主題として考えていたのは、転形期における文学の共同的・集団的制作であり、「古沼」の風景は「転形期」を導き出すきっかけとなっている。

  「まず古沼がある。古沼のまわりには芦の群落がある。つぎに、芦間にまじるすすき一もと―――または一むらがあらわれる。いつの間にか原野のけはいがただよいはじめたのだ。それから、すすきにまじる芦の一むらが続き、やがて古沼の影響は、まったく消えさり、最後には、風がふくたびに、いっせいに波たち騒ぐ、ぼうぼうたるすすきの群落になる。繰り返していう。これが、転形期の風景である」(127頁)。

花田は、風景になぞらえて、まだ文学運動は「古沼のすぐ近く」でざわめいている、とも述べている。六本足の馬が舞台に登場することもありうる。

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花田清輝『日本のルネッサンス人』