司馬遼太郎「三好長慶の風韻」

司馬遼太郎三好長慶の「古沼」のエピソードを取り上げている。『街道をゆく』32(朝日新聞社)、「阿波紀行、紀ノ川流域」。このなかの「三好長慶の風韻」という節においてである。風韻とは風雅なことをいう。長慶は優れた武将であったが、飯盛城での連歌の会には武野紹鴎もいたように、一級の茶人も参加するほどの風流な人間だった。さすがに司馬遼太郎は小説家である。長慶のひととなりを、もう一つのエピソードからも組み立てて、三好家とはどのような家筋かまで論じている。そこのところを司馬「阿波紀行」から紹介しよう。(家筋についての詳しいことは省く)

阿波の美馬郡は、三好氏の古い根拠地である。いまも三好という地名がある。三好氏はもと小笠原氏の流れだが、この地名をとって三好となった。
三好氏の五代は、阿波と京を往復しつつ勢力を大きくしていった。
『武将感状記』は備州の熊沢正興の著で、江戸中期、正徳六年(1716)の刊行。「巻之五」に長慶についての記述がある。このエピソードは『三好別記』(群書類従、巻395)から採ったものに違いない、と司馬は見ている。連歌興行のとき、弟の実休入道に兵を与え、畠山高政と戦わせていた。連歌には武野紹鴎もいた。
花田清輝松本健一が紹介していない、もうひとつの挿話。この挿話から司馬は長慶の「風韻」のさまをさらに印象深くさせている。
時代は、織田信長が京に入ったころである。

三好長慶の台所人坪内の何某を生け捕り玉う(『武辺咄聞書』)
坪内何某は料理人として日本一だったらしい。
信長お抱えの御賄頭の市原五郎右衛門が坪内を召し抱えるようにと進言した。京の都に来たからには、日本一の料理人を召し抱えておいたほうがよろしいでしょう、ということである。ところが、・・・
夕食をつくらせたところ、「塩梅水臭くして、沙汰の限りなし」「坪内め、頭を刎ねよ」となった。
坪内は、朝食をつくらせていただきたいと申し出た。お気にめさなければ切腹しましょう、というので信長はつくらせた。
朝食は実にうまかった。
坪内が言うには「今朝の塩梅は、田舎風に仕立て候ゆえ・・・」。
三好家は、長輝、長秀、長基、長慶、義嗣と五代にわたり京都で公方家に使えていたので、料理は花車(華奢)。
三好氏は武勇もあり、風雅もあった。ただ一つ天下をどうしようという野暮な経綸は大志がなかったのである。
五代も京にいながら天下人になれず、結局は坪内某のあざける信長のような田舎者がやって来なければ歴史は旋回しなかったというのが、三好氏を考える上で、もっともおもしろい。

このように司馬遼太郎三好長慶を描き出すのである。花田や松本の長慶とはまた別の長慶像が浮かび上がるのである。