玉江橋

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玉江橋旧景

 玉江橋北詰にこのような絵が嵌め込んである。長谷川貞信「玉江橋より天王寺遠景」という浪花百景の絵であるが、題名のとおり天王寺四天王寺)の塔が橋の上から見えるという景色が描かれている。よく見ると塔があり背景に二上山のようなかたちの山がある。だいたいその方角となるだろうが、ひょっとしたら葛城山金剛山かもしれない。玉江橋の南側は久留米藩蔵屋敷だったとある。

 ともかくも、四天王寺玉江橋から見えたというのが今の大阪からすると驚き。

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玉江橋の説明板

 この説明板にもあるように、大きな反り橋だったから、その反りの頂点のところから五重塔が望めたということらしい。

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現在の玉江橋

 現在の玉江橋の様子ですが、これでは南東を望んでもビルのほか何もみえませんね。

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玉江橋から堂島川

 玉江橋から堂島川の西の方面を見たところ。リーガロイヤルホテルが見える。ここへ来たのは、ホテルの近くへ行くため。

弘川寺の桜山

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もみじ

 西行、似雲の墳墓のあるところから上のほうが桜が植えられている「桜山」となるのだが、訪れた時は緑がきれいな時期だった。

 『西行』の高橋英夫がここを訪れたときは、桜の満開がすこし過ぎたときであったが、丘の上には誰もいなかったと書いている。バスで来るには不便なところで1日に何本もないところという。桜の時期も人が押しかけるような桜の名所とは違う様子なのかもしれない。(そもそも桜の時期に来たことがないのでわかりませんが。)

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桜山の遊歩道入口

 この案内があるのは、山に向かって左手、右手からも登り口があり、どちらから行ってもこのあたりに戻ってくる。

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似雲法師の草庵址

 しばらく登ると似雲法師の草庵址に着く。「須磨明石 窓より 見えて」と歌にある。木の間のあいだから須磨明石方面を見ると、

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須磨明石がみえる?

 うっすら見える山の影は六甲連山だろう。手前左手にPLの塔が見える。塔のあたりが富田林。バスはこの富田林の駅から出ている。海や須磨明石は霞のせいもあって良く見えないのだが、眺めがよいところに草庵があるということはわかる。慈雲尊者の草庵があった双龍庵の場所からも海がよく見えた(はず)。今は樹木が茂っていてよく見えない。大阪平野の山側では、少し高台に登ると眺望がきくということが、ここでもよく解る。

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桜の木

 こんなかたちで桜の木が植えられている。なかには古い桜の木もあるが、これはあとで植えられた比較的若い桜であろう。

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弘川寺本堂

 桜山から降りてきても、参詣の人はなく、境内は

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弘川寺本坊入り口


静かなたたずまいであった。弘川寺には西行に関する資料展示館もあるが、今回は見ずにそのまま帰った。ここもアジサイがきれいに咲いていた。

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弘川寺のアジサイ

 

弘川寺

 高貴寺と磐船神社の地図を見ていたら、近くに弘川寺があるのに気づいた。弘川寺は西行が建久元年(文治六年、1190)二月十六日に七十三歳で亡くなった寺である。高貴寺からも車では近い、この際ちょっと行ってみようと思った。山の裾を縫うような道を走らせるとほどなく弘川寺の入口に着いた。

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弘川寺の前

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弘川寺案内

 案内板にあるように、ここも役行者の草創、天智天皇の時代だから近江朝のころである。また弘法大師による中興という寺の歴史もある。西行がここで亡くなったこと、江戸時代には西行を慕う似雲という歌僧が西行の墳墓を発見したことも書かれている。

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弘川寺

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西行墳墓への案内

 本堂の右手に西行堂、西行墳、似雲墳、西行桜山への道すじ案内板がある。

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西行

 ここの西行堂は、吉野の西行庵よりはお堂という感じがする。このお堂を通り過ぎてさらに道を登るとお墓がある。

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西行墳墓

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西行墳墓案内

 この案内には、入寂の年が文治六年となっている。同年の4月11日に、元号が文治から建久に変わったので、この案内板の記述のほうが精確だろう。

 この墳墓は似雲が西行の墓を探して、これだろうとした円墳である。高橋英夫西行』(岩波新書)には「西行の古墳」と書かれているが、司馬遼太郎は「河内みち」で円墳が山の上にあるが、西行のものかどうか、時代の墓制とかけ離れすぎている、と疑問を呈している。南河内の山手にはこのような古代の円墳が数多くある。おそらくそのような円墳のひとつであろう。似雲はともかくも西行法師の墓と定めて、同じ敷地の少し離れたところに自らの墓所を定めた。

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似雲墳

 

磐船神社本殿と大岩(河南町平石)

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読めない説明

 磐船神社の説明板があるのだけれども、ほとんど読めない。かろうじて「栂」の字があり、「樛」というのは栂の意味なのだろうなと推測する。栂の木があったとあり、境内に玉垣で囲った枯れ木があるので、それらしい。

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枯れ木

 特別の木でなければ、このようなことにはならないからね。

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磐船神社境内、鳥居のところから見る

 正面右手に上の写真の枯れ木があり、左手奥から本殿のほうに登る石段がある。

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おおきな岩

 大きな岩が目につく。下の岩は入口が石で囲ってあり、中のほうは隙間があるらしい。

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大岩

 正面から入口を見ただけで入ってはいません。

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さらに大きな岩

 さらに大きな岩が、さきほどの岩の上にある。この下も隙間があるようだが、こちらは板で囲ってある。

 

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磐船神社本殿

 左手に大岩をみながら石段を上がると本殿に至る。正面の屋根が唐破風のかたちになっている。この右手から裏山にあがる道があるようだが、猛獣が出るので立ち入り禁止の看板がある。「猛獣」って何を指しているのだろうと思いながら、ここで引き揚げた。

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石の細工もの

 境内に石の細工ものが置いてあった。手水鉢に使われていたものか。水抜きの穴がある。

 帰りの道、鳥居の下の道から、もときた道へ。高貴寺への道を下る。

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あじさい

 ちょうどあじさいが咲いていた。

 

磐船神社(河南町平石)

 高貴寺の近くに磐船神社がある。もとは高貴寺と一体だったが、明治期の神仏分離政策で別のものとなった。磐船神社へは高貴寺の山門の前の道(草むらの道)をそのまま進むと草むらはなくなり、ふつうの山道となる。

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磐船神社への道

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わかれ道

 しばらく歩くと分かれ道になる。どちらの道をとっても神社にはいきつく。右の道をとったが、こちらは社殿のところに行く道だった。

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拝殿

 後の山の様子が印象的だった。

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磐船神社の案内板

 「神奈備」神社の形式であったようだ、ということと、旧事本紀のニギハヤノヒノ命が天の磐船に乗って降りてきたという神話の地とされていることが記されている。大きな岩があるのを見ることができる。ただし、「立ち入り禁止」で、すべてを見ることはできない。

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樛宮

 拝殿には「樛宮」の額がかかっており、慈雲尊者の命名、および字のようだ。「とがのみや」と呼ぶと案内にはあり、これが地元での通称となっているという。漢和辞典で漢字を引くと「キュウ」という音で出てくる。

 慈雲尊者によりここは葛城雲伝神道の根本道場とされた。

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磐船神社参道正面

 磐船神社の参道の石段正面からみる。ここへはさきほどの左右の分かれ道の左側の道をとるとここへ着く。

高貴寺

 慈雲尊者の晩年の59歳から87歳まで隠棲していた寺が高貴寺である。南河内の山中にある。平石峠への道の途中にあるかと地図でたしかめて向かった。平石という集落が谷の奥のほうにあり、そこの行き止まりのところに「高貴寺」の石標がある。

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高貴寺石標

 石標の先に河内の道標が立っており、平石峠と高貴寺の方向を指している。しばらく坂道を登ってゆくとカーブがありそこを登り切ったところが高貴寺山門の前。

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高貴寺案内板

 この案内板に書いてあるように近くに磐船神社があり、そこには巨石がたくさん露出している。『河内名所図会』にはもと役行者が開いたとあり(上記案内板にも)、修験道の行場であったようで、そうだったかもしれないと思わせるところである。そののち弘法大師がここに堂塔をたてた。南北朝の争乱では近くの平石城が南朝側につき、そのあおりで高貴寺の堂塔は焼失した。時代はくだって、慈雲尊者が高貴寺に入り、再興した。

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山門へ

 案内板のよこに道があり行こうとしたが、「山門から」との板書がある。おまけに猫が道に敷かれた板のうえで横たわっている。山門のほうに回った。

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高貴寺山門

 門には梵鐘が下がっていて、用がある者はこれを撞いて知らせろとの書き付けがある。無用の者なのでそのまま境内にはいる。

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堂塔への道

  山門は少し高いところにあるので、そこからの坂道を降りるとさきほどの猫の道からと合流する。土塀の横の道を進む。

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門、下乗

 門と「下乗」の石。月一度「慈雲尊者の日」が設けられており、座禅と写経をするようだ。さらにその先へと行くと、

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みどりあふれる

 お堂がみえてくるが、その前の庭はみどりあふれるといった感じで驚く。草のあいだには炭が敷かれている個所もある。?と思いながらお堂を見つめる。

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 これはおそらく慈雲尊者の筆になるのではなかろうか。

 それにしてもお堂の前の草の生えっぷりにびっくりした。司馬遼太郎が「河内みち」(街道をゆく)で高貴寺をとりあげていて、そのときは庭に塵ひとつないという書き方をしていた。今とは様子が違っていたようだ。お堂の裏手奥ノ院に慈雲尊者の五輪塔があるはずだが、「入山禁止」の立て札がある。そのまま引き返した。

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かうきじ

 分岐のところに戻る。ここへ来たときは石のあたまが欠けていて、なんだかわからなかった。高貴寺に行ってから、これを見て「かうきじ」と彫ってあったとのだと気づいた。

禅那台(長栄寺・河内)

生駒山中にあった雙龍庵の禅那台は、河内の長栄寺に移築されて残っている。長栄寺は慈雲尊者が若いときに住職だった寺である。禅那台がまだ残っていると知り、ぜひとも外観だけでも見たいと長栄寺へ。近鉄線で河内永和という駅で下車。改札を出て北側の細い道の向こう側に神社が見える。

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鴨高田神社

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鴨高田神社説明板

 入口に東大阪市の説明板がある。昔は八幡社とも呼ばれていたようだ。高井田庄にあるので「高井田」神社とまちがいそうになるが、「井」がない「高田」神社。境内に石板に刻んだ長文の由緒書きもあるが、解読困難。早々に読むのをあきらめる。もう少し読めるようにしてほしい。

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鴨高田神社社殿

 この右手の道を進み神社境内の外に出ると、長栄寺の門前に至る。神社と寺が隣あっている。

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長栄寺入口

 長栄寺の「いりぐち」。寺の門はこの中の左手にあって石の仁王像が左右にある。

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長栄寺山門

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大阪府東大阪市の案内板

 簡潔な府と市の教育委員会の案内板がある。禅那台が移築され「厳存」しているとあるが、この門前から境内を見渡しても、見当たらない。茅葺きの屋根がのっている建物のはずだと、本堂の左手に墓地があるのでそちらの方向にゆき、本堂の裏手にまわるとそれらしき建物が見える。墓地のなかを通り抜ける。

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禅那台1

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禅那台2

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禅那台3

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禅那台の説明板

 禅那台の説明板があって、内部構造の図もある。これを見ると、中心の禅室は二畳。禅室に加えて一畳+一畳の間があり、四方を三尺一寸の縁がある。大きさは二間半四方の入母屋造り。だいたい全体で八畳間くらいの大きさの建物に屋根をかけたくらいだろうか。説明板には「すまい」とある。炉が切ってあるとはいえ、ここで生活するのはちょっと?と思わせる大きさで、おそらく座禅や勉学、執筆の場として使っていたのではないだろうか。そういう意味での「すまい」であろう。西側に円窓があり、そこから大阪湾、淡路島も見えたというから、小さくて狭いながらも不必要なものをそぎ落とした理想的な書斎であったと思う。

 

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慈雲尊者像

 本堂の前に慈雲尊者像がある。(同じ銅像が、南河内の高貴寺にもある。)

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慈雲尊者略年譜

 銅像のとなりに慈雲尊者の略年譜がある。この略年譜で慈雲尊者のおおよその事蹟はわかるだろう。