高貴寺と磐船神社の地図を見ていたら、近くに弘川寺があるのに気づいた。弘川寺は西行が建久元年(文治六年、1190)二月十六日に七十三歳で亡くなった寺である。高貴寺からも車では近い、この際ちょっと行ってみようと思った。山の裾を縫うような道を走らせるとほどなく弘川寺の入口に着いた。
案内板にあるように、ここも役行者の草創、天智天皇の時代だから近江朝のころである。また弘法大師による中興という寺の歴史もある。西行がここで亡くなったこと、江戸時代には西行を慕う似雲という歌僧が西行の墳墓を発見したことも書かれている。
本堂の右手に西行堂、西行墳、似雲墳、西行桜山への道すじ案内板がある。
ここの西行堂は、吉野の西行庵よりはお堂という感じがする。このお堂を通り過ぎてさらに道を登るとお墓がある。
この案内には、入寂の年が文治六年となっている。同年の4月11日に、元号が文治から建久に変わったので、この案内板の記述のほうが精確だろう。
この墳墓は似雲が西行の墓を探して、これだろうとした円墳である。高橋英夫『西行』(岩波新書)には「西行の古墳」と書かれているが、司馬遼太郎は「河内みち」で円墳が山の上にあるが、西行のものかどうか、時代の墓制とかけ離れすぎている、と疑問を呈している。南河内の山手にはこのような古代の円墳が数多くある。おそらくそのような円墳のひとつであろう。似雲はともかくも西行法師の墓と定めて、同じ敷地の少し離れたところに自らの墓所を定めた。