慈雲尊者の晩年の59歳から87歳まで隠棲していた寺が高貴寺である。南河内の山中にある。平石峠への道の途中にあるかと地図でたしかめて向かった。平石という集落が谷の奥のほうにあり、そこの行き止まりのところに「高貴寺」の石標がある。
石標の先に河内の道標が立っており、平石峠と高貴寺の方向を指している。しばらく坂道を登ってゆくとカーブがありそこを登り切ったところが高貴寺山門の前。
この案内板に書いてあるように近くに磐船神社があり、そこには巨石がたくさん露出している。『河内名所図会』にはもと役行者が開いたとあり(上記案内板にも)、修験道の行場であったようで、そうだったかもしれないと思わせるところである。そののち弘法大師がここに堂塔をたてた。南北朝の争乱では近くの平石城が南朝側につき、そのあおりで高貴寺の堂塔は焼失した。時代はくだって、慈雲尊者が高貴寺に入り、再興した。
案内板のよこに道があり行こうとしたが、「山門から」との板書がある。おまけに猫が道に敷かれた板のうえで横たわっている。山門のほうに回った。
門には梵鐘が下がっていて、用がある者はこれを撞いて知らせろとの書き付けがある。無用の者なのでそのまま境内にはいる。
山門は少し高いところにあるので、そこからの坂道を降りるとさきほどの猫の道からと合流する。土塀の横の道を進む。
門と「下乗」の石。月一度「慈雲尊者の日」が設けられており、座禅と写経をするようだ。さらにその先へと行くと、
お堂がみえてくるが、その前の庭はみどりあふれるといった感じで驚く。草のあいだには炭が敷かれている個所もある。?と思いながらお堂を見つめる。
これはおそらく慈雲尊者の筆になるのではなかろうか。
それにしてもお堂の前の草の生えっぷりにびっくりした。司馬遼太郎が「河内みち」(街道をゆく)で高貴寺をとりあげていて、そのときは庭に塵ひとつないという書き方をしていた。今とは様子が違っていたようだ。お堂の裏手奥ノ院に慈雲尊者の五輪塔があるはずだが、「入山禁止」の立て札がある。そのまま引き返した。
分岐のところに戻る。ここへ来たときは石のあたまが欠けていて、なんだかわからなかった。高貴寺に行ってから、これを見て「かうきじ」と彫ってあったとのだと気づいた。