シャープ本社跡(西田辺)

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旧シャープ社屋

 前回のブログでシャープに触れたので、シャープ本社の建物が残っているかな、と行ってみた。本社の建物は無くなっていた。フェンスに囲まれて「ニトリ」の名前が大きくフェンスに書いてあった。上の写真は、旧本社と南港通を挟んで南側にあるシャープの建物。これはまだ解体されていなかった。建物には人がいなくて光がない。

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旧シャープの建物

 これも同じ建物を長池の方から撮ったもの。こちらはNTTの不動産関連会社との交渉との報道があったようだが、どうなったのだろうか。

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長池(南)

 これは南の方にある長池。シャープの建物とスーパー・ライフの看板が右手に見える。池の上を阪和線が走っている。

 北の方にも長池があって「長池公園」となっていて、広場がある。子どもたちが遊んでいた。

 さらに北の方には桃ヶ池があり、南には長居公園があって、ここにも池がある。宅地化する前は大阪の南の田畑が広がっていた地域だから、昔の溜池のなごりなのか、それとも古墳由来の環濠の一部だったものか、少し気になる。

山阪神社(大阪東住吉区)

 

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阪神

 阪和線南田辺駅で降りて、地図を眺めていたら、この山阪神社があった。もともと法楽寺へ行くために南田辺駅へ来た。時間の余裕があったから、どのようなところか見ておこうとできるだけ町中をあるくルートで神社に向かう。神社の隣に公園があって、そこから廻って境内に入る。神社は東の方を向いている。玉垣に「シャープ株式会社」という銘が入っているのが見えた。ここでやっと、ああこのあたりにはシャープが本拠を構えていたところだと気がついた。神社の横の道を西の方に行くとかつてのシャープの本社があったところ。台湾資本の会社になったが、以前はいくつかの製品を買って;お世話になった会社だ。とくにザウルスはシャープな製品で、iPhoneになりそこねた良品だったと思う。一部のデータだけは引き継いでいるけれども、製造打ち切りでかなりのデータを捨てざるをえなかったという点で恨みもある製品だった。ここでアップル製品へと移ってしまった。つい個人的な恨み(もっと長く持続的展開をしてくれなかったのかな)を書いてしまったが、「シャープ」の文字を見て、たまたまだけれど来て良かったと思った。境内には石碑があちこちに建てられている。

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日露戦争紀念碑

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演習石碑

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大正天皇の石碑

 このほかにもあるが、たくさんあるので省略。

 神社の由来については東住吉区役所のネット解説が詳しい。なんでも神社があるところは前方後円墳の円墳部分に神社がおかれているらしい。祀られているのは天日穂命。田辺氏は渡来人系の土師氏の系統で、もとは柏原市あたりを本拠としていたという。野見宿禰も祀られているようだが、土師氏の祖という。当麻に行ったときに当麻蹶速の碑を見たが、彼を倒した野見宿禰のゆかりがここにあったとは思わなかった。ちょっと見てみようでも、見てみるものだ。ここにも楠の大木がある。

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楠の大木

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神社東側にある楠




 

楠の大木(法楽寺、大阪田辺)

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田辺大根の碑

 法楽寺の境内の一隅に「田辺大根の碑」があった。この土地の名前がついている大根だが、現物は見たことがない。私が、大阪も含め、摂津、和泉、河内の名産野菜で、普段に目にして、食べるといえば泉州の水茄子くらいか。ほかにも地場の名産と呼べる野菜類はあるようだが、ほとんど知らないし食べたことがない。水茄子のほかは、泉州のタマネギくらいか。京野菜と比べてブランド化が遅れているのではないか。田辺大根もスーパーで目にしたら買ってみよう。

 最近は「万願寺とうがらし」というのがどこでも買えるようになった。これは一時絶滅寸前までいった甘い「とうがらし」である。種の継承だけでもと農家が努力しているうちにこれほど広まった。「万願寺」というは舞鶴の万願寺地区のことである。ここで種を絶やさないようにもう一度広まるようにと努力しているという新聞記事を大昔に読んだことがある。

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楠の大木と天狗のお面

 三重塔を挟んで田辺大根の碑と逆の方向に楠の大木がある。大木なのですぐにわかる。幹に天狗のお面がとりつけられている。寺の山門を正面から写真をとっていたとき、原付で山伏の格好をした人が乗り付け、塔や本堂の方を拝んでまた原付に乗って去っていった。法楽寺は山伏が廻ってくる寺でもあるのかとそのときは見ていたが、天狗もいるようだし、右手の小さな祠には陶器の白いキツネがいたからお稲荷さんのようだ。いくつかの信仰の要素が併存しているように見える。

 最後に法楽寺の正面から。塔の相輪が金色に輝いている。

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法楽寺の正面

 

法楽寺本堂(大阪田辺)

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法楽寺本堂

 法楽寺の本堂。写真の右上に黒いものが写っているが、これは三重塔の屋根の先から下がっている何か。何か? 本堂は宇陀松山の織田家の殿舎から移築されたものとの説明があるが、織田家の建物はほとんど仏教寺院の形式で建てられていたのだろうか。これは建物の内部をみてみる必要がある。(見ていません)

 

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白蓮

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紅蓮

 本堂前にあった白蓮と横にあった紅蓮。蓮の花はいつ見てもきれいだと思います。インドの原産といいますから、仏教の故地の花ということで仏教寺院にふさわしい花でしょう。

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びんずるさま

 背後の説明にある通り。頭がよくなりたい人はおびんずるさまの頭をなでるとよいらしい。

三重塔(法楽寺、大阪田辺)

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法楽寺三重塔

 山門の外からも塔の相輪が見える。山門から入るとこの三重塔が正面にある。相輪の金色が鮮やかだと思ったら、この塔は平成に建てられたというので、なるほどそのせいもあるのだろう。

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平成宝塔説明板

 平成八年に落慶法要がなされた。「平成の三重寶塔」と三笠宮によって名づけられた、と説明板にはある。

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木鶏(?)

 この塔の一角にこのような木の鶏が据え付けられている。ちょうど木魚をたたくときの道具が横にあって、羽のところに隙間があり、たたけば木魚と同じような音を出すのかもしれない。たたいて確かめておけばよかったのだが、ただ見てこういうものもあるのだと通り過ぎた。

 しかし、あとで大横綱双葉山が「われ木鶏たりえず」と言ったこと、白鵬がそれを引用していたことを思いだした。木鶏ってこれだったのかと? 木鶏の話は荘子のなかに出てくる。岩波文庫版、金谷治訳の『荘子』第三冊、達生篇第十九に、紀[氵+省]子(きせいし)という闘鶏を育てる人が、王から立派な闘鶏を育てるように依頼された。十日ごとに鶏は闘鶏向きに出来上がったかとお訊ねがあるが、いまはむやみに威張って気力にたよっている、音や影がさしたりするとそれに向かっていく、相手をにらみつけて気勢を張る、と答えていた。そして、ようやく十分になりました、他の鶏が鳴いても、もう何の反応も示しません、離れてそれを見るとまるで木で作った鶏のようです。立ち向かってくる鶏はなく、背を向けて逃げてしまいます。こう報告した。

 という話で、これが「木鶏」という言葉のもと。相手の鶏(にわとり)が見ただけで逃げ出すのだから、音がでる鶏ではないようだ。木魚は魚のうろこの模様が彫られているから木魚。ともかく読経のリズムをとる補助として使う。塔(ストゥーパ)のところにあるから木鶏をたたいて経文を唱えるのがここでのただしい行いなのでしょう。 

法楽寺(大阪市東住吉区)

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法楽寺門前

 享保15年(1730)、平次郎(のちの慈雲尊者)13歳のとき、父の上月安範が亡くなった。行年66歳。このこともあってか、この年の11月に、平次郎は大阪の田辺の法楽寺で忍綱貞紀和上に従って出家した。しかし、朱子学儒者の講釈を聞いていたせいか、仏教にたいしてはよからぬ気持ちを抱いていたようだ。「出家するも、十年後には還俗して仏法を破斥せん」との思いを抱いていたらしい。

 この思いは法楽寺で学ぶにつれて改心し、仏道に邁進するようになった。

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法楽寺山門

 法楽寺山門の内に三重塔が見える。この山門と奥の本堂は宇陀松山の織田家の殿舎を移築したものと案内に書かれている。しばらく前に宇陀松山に行ったことがあるので、ここにつながりがあったのかと驚いた。

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法楽寺略縁起(案内板)

 この案内板に縁起が書いてあるので、要点はわかる。平重盛のときの創設。だから最初の写真にある「小松院」という名称が付されているということ。慈雲尊者の名はこの案内の最後のほうに出てくる。

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法楽寺伽藍配置図

 まだ門前にいる。

慈雲尊者生誕の地顕彰碑

玉江橋を北から渡り右手に少しゆくと慈雲尊者の生誕地であり、そこに顕彰碑がある。

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慈雲尊者生誕地の石碑

 この石碑はリーガロイヤルホテルへの道の左手にある。ここが慈雲尊者の生まれた高松藩蔵屋敷があったところなのだろう。道沿いは壁があるので、その壁に穴があけてあり、そこからのぞき込むかたちになっている。この石碑の奥に顕彰碑がある。

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石碑と顕彰碑

 左手の奥の石が顕彰碑。さる彫刻家の作だそうだ。低木が育ってきて碑の上の一部分しか見えなくなっている。

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慈雲尊者顕彰碑案内板

 壁の穴のところに案内板がある。顕彰会事務局が平成二十四年に掲げたものらしいから、それ以前に何度もこの道は通っていたのだが、このようになっているのは気づかなかった。ということはその頃からはこの道を通っていないということなのだろう。この石碑がある敷地の建物も、あったのかどうか記憶にない。リーガロイヤルホテルのほうは以前どおりなのだが。

 慈雲尊者の墨蹟が案内板にあるが、「達筆すぎて」私には読めない。

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敷地の建物

 この建物の敷地のなかに石碑はある。通りかかったとき多くのひとがあつまってガーデンパーティをしていた。となりがリーガロイヤルホテルである。ここにも「蔵屋敷」の石碑がある。

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蔵屋敷跡(リーガロイヤルホテル

 ホテルの入口のところ「蔵屋敷跡」の石碑が建っている。今回来てみて、なるほど「蔵屋敷跡」の石碑があると確認した。見過ごしていたか、あるいはホテルの送迎バスに乗っていたから、わからなかったのだろう。

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玉江町の由来

 かろうじて読めるが、「玉江町」という地名の由来が書いてある。欽明朝のころ、堀江から美しい玉が発見され、その場所を玉江と呼ぶようになったからとある。