「歳」という文字について

 「年」とくれば「歳」。年=歳ではないか、当然だろうと思うかもしれないが、ちょっと厄介である。年は歳でもいいのだけれど、大歳の歳とは一体なんだろうか、と調べてみたら、難しそうな気配がただよってきた。

 いつもの通り白川静『字統』から、以下はほぼその引用である。一部に{}の内部に注記を加えてある。

 ○「歳」:(サイ、とし、まつり、もくせい) {「もくせい」は木星

 字の初形は戉(えつ)形の器。犠牲を割(さ)く戉(まさかり、鉞)の形であった。のち戉の刃部になかに、歩を上下に割って書く形となる。今の字形において、上部の止、下部の少の形がそれである。

 [説文]二上に「木星なり」とし、歩に従って戌(じゅつ)声とするが、字の成立よりいえば、戉形が基本で歩はのちに加えられた形である。[書、洛誥(らくこう)]{誥は王が出す文書}に「王、新邑に在りて、蒸・祭・歳す。文王には騂(せい)牛一、武(ぶ)王には騂牛一」{「騂」は赤色のいけにえ(犠牲)の牛。赤い、あかいろ。赤黄色の馬。}とあり、歳は祭名。その犠牲として赤い毛色の騂牛が供せられており、祭はこの犠牲を用いる祭儀である。[毛公鼎]に車器礼服を賜与したのち「用(もつ)て歳(さい)し、用て政(征)せよ」とあって歳を動詞的に用いる。おそらくその祭祀は年に一回行われるもので、のちにその祭祀をもって年を数えたのであろう。卜辞に「來歳」という語があり、金文には[爪+日(上下、こつ)鼎]{漢和辞典にない。爪+日に近い漢字としては舀(上下、下は臼)でヨウとある。コツって? 諸橋大漢和で調べてみたが、よくわからない。コツでは引けない。ヨウ、あるいはエウでは舀がでてくる。上の爪は手のこと、したの臼からものを取り出すこと、とある。}「昔、饑歳なりしとき」「來歳、償せざれば」のような語がある。斉(せい)器では[国差(缶+詹)](こくさたん)「國差、立事の歳」、[陳璋壺](ちんしょうこ)「陳曼(ちんまん)、再び立事するの歳」のように執政始政の歳をもって年を紀(しる)している。[蘇甫人盨](そほじんしゅ)「萬歳まで以て尚(つね)とせよ」は万年と同じ。虞(ぐ)には載といい、夏(か)には歳といい、殷には祀といい、周には年とされる。殷には五祀周祭とよばれる祖祭の体系があって、その周祭の一周するのが三十五六旬でほぼ一年にあたり、ゆえに一祀を一年とした。年はもとより農穀の稔りの意である。歳はおそらく祭名で、年とは異なるものであるが、また一年に一歳祀が行われたのである。その字形に歩が加えられたのはどのような意味であるのか知られないが、卜辞の第一期、殷の武丁(ぶて)期のものすでにその字形があることからいえば、歳星の知識と無関係であること明らかである。歳星の記述がみえるのは[左伝]以後のことであり、おそらく戦国期に、西方からもたらされたものであろう。歳は祭儀の方法を示す字かと思われるが、詳しいことは知りがたい。
  {白川にはめずらしく、「詳しいことは知りがたい」と述べている。 「歳星」とは木星の異称である。そして歳星の天文学的知識を直接結びつけることに注意をうながしている。歳星についての知はのちの知識だということ。 [漢語林]木星はほぼ十二年で天を一周するため、その軌道を十二次に分け、一次をめぐる間を一歳と呼んだ。 それで一歳は一年であるから、十二月は歳末となる。
 『漢語林』での解字:形声。歩+戌。歩はあゆむの意味。音符の戌(シュツ)は、まさかりの象形。まさかりでいけにえを裂いて、一年ごとに祭る儀式から、みのり・としの意味を表す。歩は、一年が終わって次の一年へと歩むの意味から付された。}

 『漢語林』での解字は、あたかも白川静が書きそうな書き方になっていて、『字統』のほうでは「詳しいことは知りがたい」と断定的な見解を取らず留保している。

 まあ結果として「年々歳々花相似たり」「歳々年々人同じからず」というふうに年も歳も同じ意味で用いるようになっている。大歳は、日本書紀では太歳(おおとし、おおどし)の表記で木星(歳星)の意で用いられている。だから古事記では大年とあっても、同じころには太歳、大歳という表記に横滑りしても変ではないように思われたのであろう。ただ、大年から大歳への移行は背景に時間の流れかたの意識の違いが宿されているようだ。

 

「年」という文字

 大年神の「年」とはそもそもどういう成り立ちなのか? ということが「大年神」について疑問となってくる。この漢字の成り立ちについては白川静『字統』がもっとも詳しく、字の意味を知るには役に立つ。以下、ほとんど『字統』からそのまま写したものである。他の辞書も参照したが、それほど詳しくなく、あまり参考にはならなかった。

 ○「年」:禾(か)と人に従う。禾は禾形の被り物。それを被って人が舞う形で、祈年(としごい)のための農耕儀礼を示す字である。禾は稲魂(いなだま)のような穀霊(こくれい)とみてよく、おなじくこの穀霊に扮して舞う女の姿を映した姿を委(い)という。(中略)

 ――白川は、「委」を女の舞う姿とし、「年」を男の舞う姿、と白川はしている。「委」は「女」という字が含まれているから、ただちにそうと知れる。
 (辞書の解説続き)(「年」という)字はもと会意。年と委は男女の田舞いの形である。[詩、周頌(しゅうしょう)、載芟(さいさん)]は、神田における耕藉󠄂(こうせき)の儀礼を歌うものであるが、その農耕を歌う詩句の中に、卒然として「その婦に思媚す 依たる士(おとこ)あり」と歌う。大地の生産力を刺激するために、農耕時にその地で男女の模擬的儀礼を行うことは、東南アジアにひろく認めることのできる習俗である。年と委とは、穀霊に扮した男女が、性的模擬儀礼を行うという習俗が、古代の中国にも存していたことを示す、注目すべき文字資料である。

 ――詩経の一文が引用され、そのなかに「依たる士」という表現がある。「依」とは、「人に衣をそえて、衣による霊の憑依や受霊の意を示す」ものである。また依には「依々」は思慕、「依稀」は彷彿、「依微」はほのか、いずれも恍惚たる状態をいう語である、と白川は解釈している。

 (辞書の解説続き)殷はその一年を、祭祀体系の一巡する期間に合わせて祀と称したが、周はその収穫をもって年を数えた。卜辞にも年を稔(ねん)の意に用い、「年(みのり)を受(さず)けられんか」「黍年(しょねん)を受(さず)けられんか」のように卜することが多い。一年の長さは月の盈虚によって数えるので、三百五十五日前後となり、それで卜辞には十三月ということが多い。年末に閏(じゅん)を置いたからである。歳はおそらく歳星の知識によって年歳の意となったもので、斉(せい)器に「立事の歳」のように用いる。夏(か)は歳、殷は祀(し)、周は年というとされるが、歳は最も後起の名である。

 

   このように白川『字統』にしたがって「年」という言葉を見てくると、たとえば「年末」というような一年の時間的流れのみの意味を「年」もっているのではなく、農耕とその稔りという実質的な意味がこもっている言葉であることがよくわかる。舞う男の姿、舞う女の姿を思い浮かべながら「年」という字を眺めてみるのも一興であろう。

大年神の神裔

 大年神については、前回のブログで触れたが、大年神の子どもについては、『古事記』の「大國主神」のところのうしろのほうで触れられている。(古事記の項目は岩波文庫校注者の倉野憲司による)

 大年神には、次々と子どもができ、またその子どもが子どもをつくる。このようにして「大年神の神裔」(岩波文庫見出し)が数多く登場する。

 「上の件の大年神の子、大國御魂神以下(よりしも)、大土神以前(よりさき)は、併せて、十六神(とをまりむはしら)」。途中の神々をいちいち挙げるのをやめて「十六神」いる。

 またそこに登場する羽山戸神が生ませた神々は、「上の件の羽山の子以下(よりしも)、若室葛根(わかむろつなね)以前(よりさき)は、併せて八神(やつはしら)」とあり八神がいる。これらは大年神からみて孫にあたる神々である。

 これらの神々のなかには、大津坂本の日枝神社の神や、京都葛野の松尾神社に祀られている神も登場する。これらは滋賀、京都の人にとってはなじみの深い神社である。

 松尾神社秦氏の系統の神とされている。

 上記の大年神の神裔のなかで「年」の文字をつかった名の神がいくつかいるので、それを挙げてみる。大年神の子どもの神のなかに「御年神」(みとしのかみ)というものがいる。(注)に、「大年神、後の若年神と同じく、年穀を掌る神。祈年祭の祭神の一」とある。

 羽山戸神の子どもには、「若年神」(わかとしのかみ)、「久久年神」(くくとしのかみ)という神がある。(注)に「久久年神」というのは、年穀の茎の成長を掌る神とある。若年神には注がついていないが、「年」という漢字がつかってある神名はいずれも年穀に関係する神(穀物の神)と見てよいだろう。「年」という漢字はもともと穀物に関係した文字であるからだ。

 

 

 

大年神

 『古事記』では、「大年神」は須佐之男命の子である。有名な「須佐之男命の大蛇退治」の話のすぐあとに出てくる。八俣の大蛇を退治して、住むべき宮殿を出雲の国に須賀というところに定める。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 これは須賀の宮殿を作ったときに、雲が立ち上った、その様子を歌ったもの。妻籠みにというのは妻と籠もらせるためにということ。そこで須佐之男命は子作りにはげむ。

 (須佐之男命が)「また大山津見神の女(むすめ)、名は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶(めと)して生める子は、大年神(おほとしのかみ)。次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」(『古事記岩波文庫、41頁)

 他にも子どもはいるが、「大年神」の前後だけを引用している。

 注に、「大年神」については「年穀を掌る神」とあり、そのすぐあとの「宇迦之御魂神」については「食物の御魂の神。書紀には倉稲魂とある」と。さらに書紀の記述を挙げて、書紀神代上「倉稲魂。此をば宇介能美柂磨(うかのみたま)といふ」と引いている。

 宇迦之御魂神は稲荷の祭神である。稲荷については、「いなり」:稲荷。イナナリ(稲生)の約という。五穀の神、宇迦之御魂を祀ったもの。農耕に関する神で、古くから狐を使いとして信仰する慣わしがあった。中世以降、商工業が発達して貨幣経済が発展するとともに、町人に繁栄をもたらす福徳の神としても厚く信仰された。京都伏見の稲荷神社が最も古く有名。(岩波古語辞典)

 お稲荷さんは、いまはもっぱら商売繁盛の神様のようにあつかわれて、会社の社屋の屋上に赤い鳥居とともに小さな社殿が置いてあったりするが、もとは岩波古語辞典の説明にもあるように「五穀の神」であり、とくに稲の生育を掌る神として祀られていた。「稲なり」の約が稲荷だとされるのも、もっともな理由がある。

 以前に兵庫県の田園地帯を歩いていたら稲荷神社が祀ってあって、そこに「宇迦之御魂」をお祀りしてあると説明書きがあり、そこではじめて宇迦之御魂という神名を知った。『古事記』には、宇迦之御魂はお稲荷さんのことであるとはもちろん書いてない。

 農耕の神から商売の神へと信仰のありさまが変わっているさまは、大年神の信仰の有様が変わっているのと同じ様子になっているのが興味深い。

 『古事記』では、大年神は、大國主命因幡の素兎の話のあとに、もう一度登場する。そして「年」と名の付いた神が幾つか登場するのである。

大歳社

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大歳社の鳥居

 浅沢社から細江川を越えるとすぐに大歳社(大歳神社)がある。鳥居の奥に平屋の社殿が見える。大歳社は、大歳神(おおとしの神)が祀ってあり、収穫の神様であって、集金・商売繁盛・家内安全・願望成就に神徳があると案内文には記されている。

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大歳神社社殿

 建物からは住吉大社の社殿のような威厳というようなものは感じられないが、ともかくも庶民の願いを満たしてくれるという神徳がある神社である。

 の社殿のすぐ右手においとしぼし社というのがあって、そこに「おもかる石」という丸い石がある、と案内文にはあるのだが、行ったときはコロナ禍で「石」はなかった。

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おもかる石のない石柱

 「おもかる石」と彫ってある石柱の上には、コロナ禍なので「石」は載せていないという旨の紙が貼り付けてあった。

 「初辰まいり」の最後の社殿で、種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社と参り、集金・収穫に感謝してしめくくる、とされている。この四社は、偶然なのか、そうと思えば辰の方角(東南東)にだいたい並んでいるような。正確ではないでしょうが。

 種貸しの「種」は種、子種、資本金(元手のカネ)など複数の意味があるが、大歳社ではどうも集金満足・商売繁盛にご利益があるとされていて、商売に利益がある神様とされているようで、ナニワ集金道的な意味合いになっているようだ。

 そこで「大歳神」っていったいなんだろう、という疑問がわいてくる。「おおとし」は漢字で書くと「大年」、「おおみそか」の老人語。[大歳とも書く]、と『新明解国語辞典』(初版)にはある。「老人語」などと最新版では書いていないだろうが、「おおとし」の隣にある「おおどしま」(大年増)も「女盛をとうに過ぎた、四十代・・・」と今ではちょっと書けない語釈がついている。

 大歳は「大年」でもあり、大晦日のことをも指す。そういえば、年の市(歳の市)というのがあって、一年のしめくくりの市という大売り出しの市がひらかれるのを私たちは知っている。そこで「年」と「歳」とを同じような意味で使っていて、じっさいに同じ意味なのだが、それでも「おおとしのかみ」は「大年神」と書いてあることもある。むしろこちらの「年」のほうが本来の意味だったかもしれない。

浅沢神社

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浅沢神社

 浅沢神社は住吉大社の場外末社。大社の東南方向から出て、歩いてすぐのところにある。

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浅沢神社社殿

 芸能界の提灯が多いなと思っていたら、女性の作法、芸事の守護神としてお参りされるということだ。

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竜吐水

入口の手水のところに竜吐水だろうか半分こわれかけていて、水も吐き出していなのだが、なんともいい感じを醸し出している。

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浅沢社の沼地

浅沢神社は池というか沼地というか、まわりはこんな状態で、植物がぽつぽつと葉を出している。これは「かきつばた」で、「浅沢小野の杜若」は万葉集のころから有名で、いったんなくなったあと、平成9年に復活させたとのこと。その説明板はこちら。

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浅沢社の説明板

 ここは、奈良の猿沢、京都の大沢と並ぶ名勝地だったらしい。現状からはちょっとどうかなとも思うが、ここら一帯には沼沢地がひろがっていたようだから、名勝地だったと言われればそうかなとも思う。神社のすぐ南に細江川が流れていて、そこから水が引かれているようだ。

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細江川

 「細江川」というが、細い川だ。ちなみに住吉鳥居前の次の駅名は「細井川」。ここの土手は川や池から高くなっている。細江川は古代から無くなることなくいまも流れている川。住吉公園の方向に向かって流れているようだが、川の行く末までは確かめていない。ともかくこの近くの土地の高低をみながら「浅沢小野」の風景を想像してみるしかない。

丸山大明神

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丸山大明神

 「住吉の長屋」を見てから、近くをうろうろしていたら「丸山大明神」という「大」が付いているものの小さな祠があった。このほこらの前が「丸山の庭」と称されている2畳分くらいの「広場」がある。広場と書いたのは、住吉区のガイドに「丸山大明神の前部分の敷地に、HOPEゾーン事業の施設整備としてコミュニティ広場(丸山の庭)が造られている」とあるからだ。鳥居のすぐ前で、広場とはとても言えないようなところなのであるが。そこに丸山大明神の説明書き、広場の説明書きがある。

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丸山大明神と広場の説明書き

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丸山大明神と広場の説明書き

 字が小さくて読みにくいが、その内容は兄であった後の履中天皇と対立して殺された墨江中王(住吉仲皇子)が祀られていると書いてある。難波と住吉の二大勢力の対立と書いてあるが・・・。ガイドのパンフレットには、弟の住吉仲皇子が難波宮を焼き、三日天下だったともあり(これを説明書きは難波勢力との対立と説明しているようだ)、また刺客に厠で殺され、沼地に捨てられたとある。ほかのパンフレットでも「厠で殺された」とだけ書いてある。脱力感の最中か、いきんでいた最中か、どちらにしても皇子としてはみじめな死に方である。しかも死体が沼地に捨てられたとある。

 どういうことなのだろうかと笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書)にあたってみた。そうすると第十七代履中天皇の項にこの対立事件がかなり詳しくとりあげてある。以下、笠原の記述による。

履中天皇の父は仁徳天皇日本書紀には去来穂別天皇(いぎほわけすめらみこと)とある。仁徳天皇崩御し、去来穂別皇子が即位することとなった。即位に先だち、羽田八代(はたのやしろ)宿禰の娘、黒媛(くろひめ)を妃に迎えようと、弟の住吉仲(すみのえのなかつ)皇子を派遣した。ところが仲皇子は自分を皇太子と偽り、黒媛を姦した。翌日、太子が黒媛のもとと訪れた際、仲皇子が残した鈴から所業が発覚し、そこから仲皇子は太子を葬り去ろうとした。(中途の話を略して)時期は、古事記では大嘗祭の時期で、太子は酒によって事態が分からず臣下が馬に乗せて連れだし、河内にいたってようやく目を醒ました。そのあと弟の瑞歯別(みつはわけ)皇子にも疑いをかけ、潔白を証明するなら仲皇子を殺せと命じた。そこで仲皇子の側近にいた隼人の刺領巾(さしひれ)(古事記では曾婆訶里[そばかり]という隼人)をそそのかし仲皇子を殺害した。曾婆訶里は王が厠に入るのを伺って、矛で刺殺したと古事記にはある。笠原著には「厠」での刺殺の件は書いてない。仲皇子を刺殺した刺領巾(曾婆訶里)も瑞歯別(みつはわけ)皇子により酒席で殺されてしまう。

 少々、本により異なる記述はあるが、だいたいこんな話である。丸山大明神に祀られている人は、天皇家の系列の人ではあるが、なるほどこれなら大々的に祀ることもできなかったのだと分かる。こうやって小さな「庭」ができたのだろう。丸山というのは円塚が築かれていたから、こういう名前がついた。