散歩

近江の「小野」の風景

古代の小野氏は山城の小野(上高野)から近江の小野へと移っていった、と前回に触れたが、では近江の小野とはどのようなところだろうか。まずは地形から。 小野神社という小野氏の始祖を祀る神社がある。ここに行くには、京都から湖西線に乗ると、JR小野駅で…

「野」と「原」(司馬遼太郎「阿波紀行」)

司馬遼太郎『阿波紀行、紀ノ川流域』の「三好長慶の風韻」のところに(99頁)、「原士」(はらし)という言葉が出てくる。これは、司馬の言うところによると、「湯桶読みだが、稲作できない土地を耕す武士のことであり、阿波独特の制のことである。数は藩全…

五連の竈(竃、かまど)

土間には(板間とのあいだには)五つの竃が並んでいる。また土間の北側にはさらに大きな竃がある。これは災害などの救恤のときなどに使われたものだそうだが、会所での大人数での集まりなどでも使用されたであろう。汁もの、煮込み料理に使う大鍋が竃にかか…

土間と梁組(鴻池新田会所)

鴻池新田会所本屋の土間と梁組。これほど広い土間を見たのははじめて。鴻池新田を束ねる会所の土間だけのことはある。この土間でいろいろな作業も行われたのであろう。上を見上げると立派な梁組が見える。説明には400年もののクロマツが使われているとある。…

鴻池新田会所本屋

JR住道から一駅、鴻池新田に「鴻池新田会所」が残されている。重要文化財。学研都市線の電車の高架から住道方面に向かうとき右手に見える。あっという間に通り過ぎるけれども、実際に訪ねてみると、たいへん立派な会所であることがわかる。その名の通り、大…

住吉神社(住道)

住道はもとは角堂浜(すみのどうはま)と言った。今は恩智川と寝屋川の合流地点に祀られている。JR住道駅を下車、デッキのところへ出るとそれはそのまま川の対岸に渡る橋になっている。橋の途中に右手に川の合流地点へとゆるやかに降りてゆく小さな橋があり…

三箇大橋(の下部)

恩智川の方向にもどると新しい橋が見える。車道、歩道がわかれていて、川を渡り、恩智川に沿って道も通り、分岐もあるので複雑。橋の下に新しい石碑もある。読むと計画から約40年以上も経て、この橋の架け替えが完成したとある。住道地区の最後の河川改修工…

旧吉田川跡(北端)

八幡神社のところからJR線に沿って住道方面へ歩いてすぐに、南側に旧吉田川跡がある。そうだと見なければ、ただ刈り込んだ生け垣があるだけの風景。ここは大和川の支流だった吉田川が深野池に流れ込んでいた場所。ここから南の吉田(東大阪市の花園ラグビー…

八幡神社狛犬と神社縁起

写真は狛犬の後ろ姿から見たもの。台石に「團野氏」と彫られている。「御供田」はその昔「團野村」と言ったという。團野氏は、この地の名家だった。石清水八幡の社領(御供田)だったことから、「御供田」という地名となったという。 神社縁起には、源義家の…

八幡神社(御供田)

白壁の蔵のすぐ近くに八幡神社がある。遊歩道からは、神社の裏側しか見えない。ちょっと見てみようと南側へとまわる。神社の建物、石の鳥居は新しい。だが、由緒は古い。「御供田」という土地の名称がなぜついたのか、その由緒書きも神社に掲げてある。(神…

旧恩智川(御供田地区の雨水貯留施設)

恩智川を住道方面に渡ると、左手に緑地が見える。そこが旧恩智川の川床で、今は雨水貯留施設となっているところ。川床は遊歩道となっており、土手にはいろんな植物が植えてある。川筋を変えて埋めることはせず、雨水を貯めるところとしてつかっているのは、…

恩智川

古堤街道を住道の方向に歩いてゆくと川に突き当たる。川を越える車専用の道路があるが、歩行人、自転車専用の橋がかかっており、それを渡る。渡るとき何という川だろうかと思ったのだが、渡り終わったところに案内絵図があって恩智川だとわかった。写真でわ…

大東市マンホール図柄(野崎まいり)

古堤街道を歩いていて、ふと足元のマンホールを見たら、野崎まいりの図柄になっていた。昔の絵図から構図をとってきている。細部は絵図そのままではなく、少し変えてあるようだ。野崎観音の竜宮門があったり、大東市のマークが舟の帆柱にひっかけてある笠の…

農民感謝碑

平野屋新田会所跡の土蔵礎石のある所の北側に隣接している、小さな密林状態となっている場所がある。小学校のところから橋を渡ってすぐの所に石碑がある。農民感謝碑で、「明治18年と22年の大水害時に、地主高松氏や支配人による救済活動に対し、農民が感謝…

東高野街道から古堤街道へ

東高野街道を南下する。大阪産業大学のところを通り抜け、道が少し狭くなる。すぐに石柱がたっている道路と交差する。生駒の山の方を見るとなんとなく旧街道のような気もするが、よく分からない。おそらく古堤街道だろうと右手の方向に(西の方向)にゆく。…

東高野街道=国道170号線(旧)

大阪生駒線(府道8号)を越えて少し歩くと、国道170号線(旧)と合流する。合流地点に「東高野街道」の標柱がある。それまで歩いてきた東高野街道とは、まったく道路の雰囲気が変わり、こういう標柱がないと旧街道であることがわからない。人が歩く街道が、…

東高野街道の郵便ポスト(大阪生駒線の近く)

東高野街道を南にゆく。もう少しで大阪生駒線というところに軒先に赤いポストと切手、印紙類販売の看板が下がっている家がある。ポストは四角くて使われているのだろうけれど、切手なぞは売っているのだろうか? まだ小さいときに街角でよく見かけた家のたた…

メノコ橋の欄干

大東市歴史民俗資料館のところから、東高野街道を南下するとすぐに「メノコ橋の欄干」がコンクリートの上に並べてあり、となりにその説明板がある。詳しい内容はその写真の説明を読んでもらうことにして、昔ここには井路があり、橋が架かっていた。その石の…

野崎まいり舟運の図

ようやく野崎詣りの、大坂からの舟運の図が登場する。今の野崎のところからは本当に舟が行き来していたのかと疑問になるが、いまでも「津」のつく地名が残っている。大坂の八軒家浜から徳庵、住道を経て、観音浜までの水路があった。八軒家浜はいまも大阪の…

奈良時代の大阪河内平野の条里制

古墳時代に続いて、奈良時代。河内平野の条里制の地理図。難波宮があり、河内の条里制がどのようになっていたのかが図示されている。現在の河内、大阪市東部の地図は、いくばくかはこの条里制のあとを継いでいるのだろうか? 最初に大阪の地図をみたとき、区…

古河内平野、河内湾の時代(縄文時代)の地理図

日本列島が大陸から離れ、縄文時代には温暖化で海面が上昇した。縄文時代の河内は河内湾と呼ばれる海が広がっていた。縄文海進と言われる現象ですね。これから温暖化になると、縄文時代と同じようなことになり、ふたたび河内湾が出現するかもしれない。今生…

東高野街道(野崎観音前)

JR野崎駅から歩いてきて、野崎観音の上り口にさしかかるところで、東高野街道がクロスしている。旧高野街道は、京都方面から生駒の山裾を通り、高野山へ向かう道。「東」というからには「西」があるはず。「西」の高野街道は、大阪の上町台地を通っている。…

降りの石段(野崎観音)

野崎観音の降りの石段。降りて行っている人たちは皆、韓国語を話していたので、韓国からの観光客らしい。大阪中心部だけでなく、郊外の野崎まで外国の観光客が来るようになっているのかと感慨を新たにする。日本人の私は、寺の名前や、野崎という地名は知っ…

金魚すくい

野崎観音への参道には出店が石段下までならぶ。金魚すくいは出店の定番。裏からのぞくと赤い色の魚はいない。メダカか、あるいは和金の黒か、おたまじゃくしのようなかたちの小さい魚が泳いでいる。小さいだけに掬いやすそうで、おわんのなかには、けっこう…

〽野崎まいり

野崎まいりの期間中、東京大衆歌謡楽団が二日間、野崎観音で野外演奏をおこなった。もちろん〽「野崎まいり」も歌われた。ステージの前には多くのひとがあつまり、手拍子をとったり、おどったりで大いに盛り上がった。天気は快晴、日のひかりのもとで、演者…

四条畷神社

飯盛山から四条畷神社の方向へ降りる道は急だ。逆に登るのはきつい。そこを小学生が駆け上るようにして登ってきた。体が軽く、足腰のバネがきくのを見るとうらやましい。坂を下りきって平坦になったあたりに「御机神社」方向の指示看板はあるが、「四条畷神…

野崎城趾

九重の塔から、野崎城趾へのルートをとる。「野崎城址」の石柱と説明看板がある。野崎城は中世からあった山城で、飯盛城が築かれたあとは飯盛城の出城の位置づけとなった。ここからの眺めがよい。中世には野崎城の眼下のすぐ近くまで深野池が近くあり、池と…

野崎観音からの大阪南部の眺め

野崎観音の本堂の裏手に少し上がったところからの眺め。生駒の山並みと大阪平野、和泉山脈、紀淡海峡までの眺望が利く。この眺望は飯盛山へと高度をあげてゆくとさらによくなるのではないかと期待できる。野崎観音は山の中腹に位置しているので、境内からの…

慈眼寺(野崎観音)本堂

野崎観音の本堂にお参りしたひとは入ってゆくが、今日は登山が目的なので、お賽銭をあげて、左手へ。屋根裏にはびっしりと戌(犬)の人形が下がっている。 寺門から本堂 本堂 戌の人形