「此式自上古」(住吉大社御神田の石碑文)

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住吉大社御神田の脇にある石碑

前回の「日記」の最初の写真の左手に、よく見ると稲刈りをしている人が写っている。まだ稲刈りを始めたばかりで、これもよく見ると田のなかに筋がついているのがわかる。その稲刈りをしている人のさらにその先、左手の奥のほうに石碑が並んでいる。ふつうはこちらのほうへは行かないと思うが、行ってみるとそのなかにこのような石碑がある。ほとんど読めない、わからない状態である。漢文で書いてあることだけはわかる。ありがたいことにその漢文を書いていただいたものが次の板書。石碑の近くにある。

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石碑の漢文

 このように漢文に起こしていただいたのは有り難いが、ほとんどの日本人にとってすでにこの漢文を読み下すことはむずかしいであろう。

 ということで、さらに有り難いことにその漢文の内容をかいつまんで記してある板書がもうひとつある。

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石碑文の内容を説明している板書

 内容はたいへん興味深いものである。田植え神事における大阪西区新町との関係についてふれられている。新町といってもただの町名ではない。新町は大阪の太閤時代から明治初期までの遊郭だったところである。江戸の吉原のようなところ。新町に先だって、住吉大社の御田植え神事には堺市の乳守廓の娼が植女となっていたが、明治十年に途絶えた。それを受けて翌年、新町の娼が植女となって儀式を遂行したと書いてある。篆書は宮司の津守国敏、撰文と書は新町住人の漢学者である妻鹿雍、平成二十二年にその妻鹿氏の子孫(であろう)がこの板書を建てたとある。新しい。だから読むことができる。さらに、現在行われている田植え神事がどのようなものであるか、たいへん興味のわく内容が書かれている。そもそも田植えのはなやかな行事は神事ともされたし、古くから領主と農民とのあいだの重要なまつりごとでもあった。「まつり」のなかには祭り、祀り、政、奉り、festival、祝祭、祭日などいろんな意味合いがこもっている重要な行事だったはず。明治23年(1890)の石碑だが、100年以上経つと解読が困難になっている。

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新町廓

 真ん中の石柱に「新町廓」とある。この字は大きいのでなんとか読める。歴史の一端がここにもあるよといった風情の石柱である。