阪急南茨木駅から春日神社(天王1丁目)へ

阪急南茨木駅

 ここは阪急南茨木駅阪急電車中央環状線、高速近畿自動車道、モノレールが走っている。駅の南から北へは歩道橋を渡る。青色の歩道橋。これがまがりくねっている。渡り終えて、川筋をたどるが水は見えない。おそらくこの方向だろうと中央環状線にそって北へ。するとここに到達する。

水の出口

池があった

 右手にモノレールと高速道路がある。

大阪モノレール

 見ていたらたまたまモノレールの車両がやってきた。

さらに大きな池

 

警告看板

  立ち入りの看板がある。「奈良水利組合」の名がある。モノレールの東側は「奈良」地区、さらに阪急線の東側は「東奈良」地区。なぜ茨木に”奈良”なんだ? と疑問に思っていたが、あとで春日神社の由来を読んで、「そういうことか」。

春日神社参道

 二つの池のあいだは春日神社の参道になっている。

春日神社鳥居

春日神社案内看板

 ここで由来に書かれているように藤原氏の血筋の妻が、子どもに恵まれなかったので、大和の国の春日大明神に祈り、子どもを授かった。そこで藤原氏の祖先の天児屋根命を勧請し、祀り、地名も「奈良」と呼ぶようになったとある。それで「奈良」か、となっとくした。が、茨木駅の近くにも「春日」という地名があり、ここにも春日神社がある。前にも豊川の春日神社に行ったが、茨木には春日神社が多い。それだけ藤原氏の力が強かったということなのだろう。

春日神社拝殿

手水

 変わった形をした手水だろう。水はきていないので手水としては機能していない。

蔵替川(大阪府茨木市)

「蔵替川」プレート

 美沢橋を渡って帰りがけに橋の名称のプレートを見やると「蔵替川」となっている。たしか「小川」だったはずと橋の東側に行くと。

「小川」のプレート

 「小川」のプレートがある。名前が二つ? と、川をのぞきこむ。

川が二つ

手前が「蔵替川」。向こうの川が「小川」。美沢橋のところが合流地点だったのだ。

川の合流地点

 離れたところから見ると川の合流の様子がよくわかる。

「みさわこはし」

 ひとつにつながった橋だけれど、蔵替川の上の部分には「みさわこはし」のプレートがある。

「みさわこはし」から

 「みさわこはし」から上流部を見ると、水は流れている。農業用水にでも使われているのだろうな、というような水の流れである。たどってみることにした。

建物のあいだを流れる蔵替川

南茨木駅の近くは建て込んできているので、川は建物のあいだをながれている。

直角にまがる

 駅の近くで道路にそってほぼ直角にまがる。「直角」といっても流れを考慮してカーブさせているが。空き缶、ペットボトルが捨ててある。

阪急オアシス

 川がまがった先に阪急オアシスがある。「水路にゴミを捨てないで!」の注意書きがあるが、おかまいなしの連中が多いのだろう。

中央環状線の下

 川は中央環状線の下のところで暗渠になっているようで、この道のカーブがおそらく川の流れをあらわしているのだろう。はじめてここにきたとき、えらく道が曲がっているなと思ったのだが、川があると思えばなっとくする。

ヤノベケンジの彫像

 曲がった道を行くと南茨木駅に着き、ヤノベケンジのつくった大きな彫像が立っている。川の痕跡はここで切れているが、たぶん阪急線の向こうがわに川はつながっているはず。どうやって線路の向こう側にいこうかと一思案。

美沢橋(大阪府茨木市)

みさわはし

 阪急南茨木駅から歩いて佐和良義神社に行くには美沢橋を渡る。「みさわはし」と欄干のところにプレートが貼られている。「美沢」という名称には理由があった。

阪急南茨木駅の近辺地図

 これは阪急南茨木駅にある駅近辺の地図である。阪急線を水平に描いているので南北軸でみるとちょっとヘンな感じになるが、左手下のほうに元茨木川の緑道をはさんで沢良宜西、沢良宜東、沢良宜浜の地名が見える。いまはびっしり家が建て込んでいるが、昔の地図(古地図)で見ると、「さわらぎ」の「西」「東」「浜」のそれぞれの村の集落は離れていて、集落の間には田圃が拡がっていた。三つの別々の集落のおもむきだったのである。都市化がすすみ、住宅開発もすすみ、あたらしく地名を考えるにあたって、三つの浜のほぼ真ん中にあるので、最初は「三沢」(三つの沢良宜)の意味として、さらに「三」を「美」に変えて「美沢」としたとのことである。「美沢町」はこういう経緯で生まれた地名。佐和良義神社のある場所は、沢良宜「東」「西」「浜」の入会地なので無番地だった。いったん西599番地で登記したが、昭和43年の新住居表示で三・沢良宜から三沢をのこし、三を美に変え美沢町というシャレた地名を設定することに意見が一致し、「美沢町9番27号」と登記地とした。(高島好隆『私本 いばらき風土記』36、37頁)

「小川」

 「みさわはし」の下を流れる川は「小川」というのか! あちらの欄干のところにプレートが見える。小川にしては少し大きめかな。

小川の上流方向

 「小川」の上流方向を見ると、こんなふうで普通の川にみえる。向こうに見える橋は「防領橋」。地図をみると「防領川」と記してある。そのように呼んでいるのかもしれない。近くに「小川町」という地名があって、川は名前は途中で変わるから複数の名称をもっているのかもしれない。この川は元をたどると元の茨木川のところにいきつき、安威川勝尾寺川からの水が今も流れていることがわかる。農業用水として使われていた(いる)のだろう。

 つい最近、大阪の人に南茨木あたりはすっかり変わってしまった、という話を聞いた。大阪から京都の大学に阪急で通学していたのだそうだ。南茨木あたりは田圃ばかりで家はなかったのに、という話である。たしかに少し前までは水田がひろがっていた風景を私も覚えている。クルマの中央環状線、阪急線、モノレールが南茨木を通り、たしかに「都市化」した。元の「村」の時代からは10倍以上の数の住宅ができた。いまはもっと多い住宅の数だろう。そうなると新設の地名を設けなければならない。都市化のありさまを見るには南茨木はうってつけの場所かもしれない。

佐和良義神社(さわらぎ・じんじゃ)(茨木市)

式内・佐和良義神社

 南茨木駅から元茨木川の緑道伝いで道祖神社の方向に歩くと、佐和良義神社の裏手から境内に入ることになるけれども、これは神社の南方側からのアプローチ。神社のすぐ近くにはクルマをとめるところはないので歩くしかない。

さわらぎ神社鳥居

 地名は「沢良宜」と表記されているが、神社の表記は「佐和良義」。文献にあらわれたなかでは最も古い表記を採用している。高島好隆『私本 さわらぎ風土記』の冒頭に「さわらぎ」の表記法が、西暦927年(平安時代)から1483年(室町時代)まで列挙されている。「さわらぎ」はいろいろな表記(漢字、ひらかな、かたかな)でさまざまになされているが、一音一字であらわしたものが「延喜式」の式内神社のなかでも古格の神社であるという。平安時代の表記ではあるが、万葉集の万葉仮名のような表記法のほうが、「サワ」を「沢」「澤」と縮み志向で書くより古いのだそうだ。だから今の地名表記とは違って「式内 佐和良義神社」と記されている。

 「義」「宜」または「冝」と書かれる「さわらぎ」の「義」は「ギ」と読むべきであるという。「義」「宜」は乙音のギであってキではないという。

 国語学者橋本進吉は古代の日本語(奈良方言を主とする)では、キケコソトノヒヘミメヨロ(清音、濁音とも、古事記ではモにも)に各々二種類の区別があり、発音を異にしていた。それを「キの甲類」「キの乙類」と甲・乙という呼び方をしている。(参考、築島裕国語学東大出版会、28頁)

 ここからすると「佐和良義」神社と書くのは古格を表していると言える。

さわらぎ神社への道

 佐和良義神社への道は、元茨木川の緑道(土手道)を通るから緑色がたっぷりあって、太陽光が強いときには好ましい。

佐和良義神社境内

佐和良義神社拝殿

 左手に見える住居は美沢団地。

佐和良義神社本殿

 本殿は一間社春日造の形式だろうが、唐破風がついているので、まったくの古格というのでもなさそうだが、立派な神社建築になっており、境内もきれいに掃除がされていて、心地がよい。

 現在の社殿は、明治40年8月23日の元茨木川の決壊により社殿が流出し、「春日造り」の社殿は大正6年の再建になるもの。(高島好隆前掲書に記載)

佐和良義神社案内板(木の枝に覆われている)

 案内板があるのだが、植木の枝がのびていてほとんど見えない。残念。

横からのぞいた神社案内板

 横から案内板を覗いて撮ったもの。案内板の左手端に「高島好隆」氏の名前が見える。
 

水神社(すい・じんじゃ)(茨木市高浜町、桜通り)

水神社

 前回にもあげた「水神社」(すい)。案内板ももう一度。

道祖神社、水神社案内板

 この案内板でまず気になるのは道祖神社所在地の「高浜町四〇三番地」。現在の番地ではなく、ネットのマップで検索しても出てこない。おそらく昔の地名番地なのだろう。

 さらに気になるのは、水神社の祭神「はにやすひこおおかみ」「みずはのめおおかみ」に並んで、高島伊太郎命という名前が挙げられていること。実在したであろう個人名が古代の神名とともに掲げられているのはどうしてかという疑問がわく。しかも明治十二年に遷座とある。なぜこうなったのかは、近くに茨木みのり幼稚園というのがあって(1キロほど離れているが)、そこのホーム・ページにだいたいのことはわかる。もとは『わがまち茨木 人物編』茨木市教育委員会、昭和60年3月、85~86ぺージの「高島伊太郎」の項目を参考にしてほぼそのまま書いてあるので高島伊太郎という人がどのような人物だったかはわかる。執筆は、(故人)岩城光之助筆、協力高島信義、『浪速文叢』第3号より転載、とある。簡略に事蹟のみピックアップして記しておく。

水神社。明治12年建立。地区は茨木川安威川下流にあり、両川の排水路の神崎川の増水で周辺の田畑に雨水が停滞、全面湖水の如し。地区区長の高島伊太郎は府に改修を要請。明治11年改修始まる。政府・地方とも、公費なく高島は私田50町歩余、刀剣、鎧、兜、家宝を売り費用に充てた。
明治12年感謝の結晶として社殿をたて高島を祀った。

 と、このような内容が記されている。当の高島伊太郎の写真も掲載してある。たいへん意志の強そうな風貌の写真である。

 もうひとつ、高島好隆『私本 いばらき風土記』1987年、「いばらき地名を守る会」茨木支部発行という本があり、水神社の地番の事情も書いてある。これも要点のみを記すと以下のとおり。

 河川改修の竣工式に、「はにやすひこ」、「みずはのめ」神を祀った。神官を多数招いて式を行った。花火も上げた。(竣工年の記載は? 誤植か)
浜村では、12年この水神を勧請した。道祖神に並べた。すぐあとに伊太郎は死去、合祀しようとしたが政府に遷座を命じられ403番地宅地73坪拙家の私有地という屋敷神のかたちをとった。「水神社」の額は知事渡辺昇の揮毫。

 当時の知事は高島伊太郎と昵懇だったとのこと。

 政府から合祀はならぬとされ、屋敷神のかたちで祀ったとある。どうりで地番が合わないはずだ。またなんで並んでいるのか、高島伊太郎という個人名が古代の神名と並んでいるのはなぜか、ということもだいたいわかる。普通は顕彰碑というところだが、湖水のようにもなる地域の排水の為の改修を私財をなげうって実行し、神のように思われたのであろう。

 上に「高島信義」という名があがっているが、伊太郎の子孫。高島信義氏の名前は、茨木文化財資料館の裏手にある土蔵がもと高島家の土蔵であり、市に寄付され、保存されているので外観を見ることができる。

高島家土蔵

高島家土蔵案内板

 水神社と併せてこの高島家土蔵を見ると、さらにこの地域のことがわかるような気がする。

道祖神社(どうそ・じんじゃ)、大阪府茨木市高浜町(桜通り)

豊川1丁目にある道祖神社(さい・じんじゃ)に道祖神の石像があった(間違いないと思われる)。茨木にもうひとつある道祖神社(どうそ・じんじゃ)が気になったので行ってみることにした。「道祖」と文字は同じだが、読み方が違う。もっとも高浜町にある道祖神社も「さい」と読む人もいる。こちらは案内看板とおりに「どうそ」とする。

道祖神社鳥居

 高浜町道祖神社に行くには阪急の南茨木駅から歩くか、阪急茨木市駅から近鉄バスに乗るかである。神社の駐車場はあるが、スチールの車止めがあって、止めることはできない。神社は元茨木川の緑地帯にあるので歩いてゆくほうがいいだろう。南茨木駅から行く。緑地帯に入ると途中で佐和良義神社をも通る。ここを通り抜け、しばらく歩くと道祖神社に着く。

 道祖神社は水神社と並んで設置されている。二つの神社名はこのように石碑に刻まれている。

道祖神社と水神社の案内板

 ここには案内板がある。「どうそ・じんじゃ」と読み、「塞神神社」(さいのかみ・じんじゃ)でもあるとの説明がされているので、いわゆる道祖神の信仰に基づいた神社であることがわかる。祭神が猿田毘古とされているのは、豊川の道祖神社で書いたのと同じような事情があったものと推測する。

水神社

道祖神

 水神社と道祖神社(道祖社)とは並んでいる。

藤棚

 両方の神社の前には藤棚があって、しかもかなり大きくなっているので、道祖神社のいほうに近づくのにちょっとやっかい。

明治12年の灯籠

 灯籠には明治12年と刻まれている。案内板に書かれている水神社の遷座の年と合致する。

出世地蔵尊

 二つの神社のとなりに「出世地蔵尊」という祠がある。こちらのほうがちょっと目につきやすい。「出世間」ではなく「出世」のほうにこころがひかれる傾向があるのは人間のつねであろう。

道祖神社表参道

 境内から南の方向に歩くと道祖神社の「表参道」の石柱と鳥居がある。最初の鳥居はさしずめ裏参道ということになるか。

 どこかに道祖神らしきものはないかと見渡してみたが、見つからなかった。古い沢良宜の集落にあった道祖神への信仰がこのようにして残っているということでよしとしよう。もうひとつの水神社も大変気になるが、今回は「道祖」のつながりで来ているので、省略する。ここから一津屋が近いという地理的な感覚があるのが来てみてわかったのが収穫だった。

道祖(さい・じんじゃ)再訪(西国街道、大阪府茨木市)

 道祖神社を訪れてから一週間ほどあと、バスで豊川一丁目を通りすぎた。

 「あれっ?」

 神社のあるところの雰囲気が以前とは違う。樹木がないのだ。

 確かめるためにもう一度行ってみることにした。

道祖神社の正面

 神社の正面から見るとこんな感じ。正面からみると少しは枝が残っているが、以前の鬱蒼とした感じ、社叢といった感じはなくなっている。

道祖神社境内

 鳥居をくぐり境内のなかに入ると木々が切られているので日差しが直接当たる。

道祖神

 今回、再びやってきての自分にとっての大きな発見はこの道祖神だ。

 前回のときにも境内の入口にあるこの石をみていたが、赤い布に書かれてある「般若心経」に気をとられ、お地蔵さんか、と思ってしまった。また石像自体もよくわからなかった。その点は今回も同じである。前回はなんで神社で「般若心経?」とそのままスルーしてしまったが、今回は神社に仏教の経典の取り合わせ?ということで写真を撮っておいた。目でみても凹凸などもよく見えず、石像の形などの特徴はよくわからなかった。帰ってきてから写真をみると、頭部のようなものが二つ見えるのに気づいた。これは男女二体の道祖神であろう。お地蔵さまなら頭部はひとつのみ。この石像(=道祖神)がもとからあり、それで道祖神社となったのだと思われる。これに気づくべきだったのだが、赤い前掛けに書かれた「般若心経」のため、ヘンなものとして見過ごしてしまった。花、水が供えてあり、ろうそく立て、線香立てもある。信仰の対象は鳥居の横にあるこの道祖神にあるのだろうということがわかった。道祖神は関東、信州ではそこここで見られる。ここでの信仰の実態はわからないが、この道祖神が大切にされていることはわかる。

 それにしても写真は撮っておいてよかった。太陽光が直接あたっていると肉眼でみてもわからないことも多い。

道祖神社境内

途中で切られた大木

保存樹林看板

社頭からの眺め 郡山団地の方向

 道祖神社から丘陵地のところにある郡山団地の方角を見たところ。

社頭から春日神社の方向を見たところ

 社頭から春日神社(豊川1丁目)の方向を見たところ。丘陵地の奥のところが現在の「道祖本」の地名である。丘陵地のしたに並ぶ家屋のところに西国街道がある。