下鴨神社の「小川」と祭祀遺構

小川

 下鴨神社の境内にはいくつもの小川を見ることができる。これもそのひとつ。このような小川をみるとさまざまな記憶がよみがえってくる。

糺の森の祭祀遺構

 さきの小川の近くには祭祀遺構が復元されている。

祭祀遺構の案内板

祭祀遺構説明

祭祀遺構の写真説明

 と、このように説明されているのだが、具体的にどのような祭祀がおこなわれたかはわからない。水辺の近くだから、水に関する祭祀がおこなわれたのだろうとは書いてある。下鴨神社の境内には、ここと同じようなちょっと大きめの石を敷き詰めたところがいくつかあって、そこは結界となっている場所がある。

 普段の生活では結界なんぞは意識しないが、こういう場所ではいやでも身体的に意識させられる。



 

井上社、舩島(京都・下鴨神社)

井上社

井上社、御手洗社の案内板

 井上社、井戸枠の上に社が乗っかっているので「井上」社というらしい。形そのままの名称(最初の写真)井戸枠の周りから水が湧き出している。夏には井上社の前にある浅いみずたまりで皆さん足を浸けている。床机も設置されていて、天蓋もあって、夏の暑い時期には気持ちがいいらしく、人の移動が少ない。御手洗ではなく、御足洗。

巫女さんの研修

 この日は巫女さんの研修をしていた。説明をうけてなにかを見つめている。

 この場所から舩島の方へと行く。直会殿のところを通る。ほとんどの観光客は拝殿からそのまま引き返して赤い鳥居のところへと戻っていくが、舩島という神地があるのでそこをちらっと眺めるとよいだろう。一般人は立ち入り禁止の場所ですが。

奈良殿神地

 この説明にあるように小川で囲まれたところを「磐座」にして、水の近くでの祭祀を行う場所。「磐座」と呼んでいるが、大きな岩はない。

 たまたまこの日は島の掃除をしていた。

舩島の掃除

 たまたま見かけた。めずらしい光景かな。落ち葉がたまっていて島の上に置かれた石が見えないのが普通なのだが、掃除をしたことで石が敷き詰められた島の上の様子が良くわかる。

掃除中の舩島

 島の手前にある格子のところは井戸があるという。手前のほうには石が置かれていないこともよくわかる。

舩島の概略図

舩島案内板

 板の節が黒くて読みづらいとこもありますが。舩島は御手洗川と泉川が合流するところにある。こここら少し南のほうに行ったところにも古い祭祀場が出土していて、そこにも石が敷き詰められていた様子が再現されている。

奈良殿神地へのいりぐち

 ここを入っていけば舩島にたどりつく。

下鴨神社の言社

下鴨神社の楼門の前

 この日は下鴨神社の楼門の前に修学旅行とおぼしき高校生くらいの生徒たちが群れていた。いまの修学旅行生たちは観光バスではなく観光タクシーに分乗してあちらこちらを廻っているようで、数人を相手にタクシーの運転手が説明しているのが見受けられる。少し前ならばこのような修学旅行生を見ることがなかったのが、コロナ汚染の制限をやわらげたせいか。コロナ汚染者は相変わらず多いけれど。

下鴨神社境内中門

 下鴨神社の境内の中門を通り抜けて拝殿の前庭には「言社」と呼ばれる祠が七つ並んでいる。何度もここへは来ているが、まったく注意を払っていなかった案内看板がある。

言社配置図

 七つの祠は「えと」(干支)の神様として割り当てられている。12の「えと」を7つの祠に割り当てるから、数がうまく合わない。2つの「えと」をうけもつ神様もでてくる。日本人はうまれ年により、「えと」がまんべんなく割り当てられるから、拝殿に行く前か後かに、このどこかへ立ち寄るという寸法になっている。外国人には「えと」という意識はあるのだろうか? 外国人の生まれについて、「星座」なら聞くけれども、そうなると占星術的な考えかたになる。まあ、日本人に対しては、七つの祠のどれかにお参りする(させる)という方式としては有効なのでしょうが。

 肝心の神様の名前を見ると有名な大国主神(命)をはじめ、出雲系の神様である。鴨神社を祀る鴨氏は奈良の鴨族と同系統の氏族で、出雲系の氏族である。そのことを明確にあらわしているのがこの言社の小祠群というわけ。子年、牛年~だから、ここの祠へと導かれていると、神様の系統のことは意識から飛んでしまう。私も最初来たときは小祠群を見て、「なんだこれは」とは思ったが、まったく「下」鴨神社なのに古代の鴨族のことなど、まして出雲系統の人々のことなどは念頭になかった。

 

下鴨神社 糺の森 納涼大古本市

向こうに見えるは古本市

 例年、下鴨神社糺の森で納涼大古本市が開かれる。しかしこの間はコロナ禍で古本市は中止だった。お盆の前後に開催される。久しぶりに開催されたので初日に行ってきた。暑い日だったが、糺の森の緑陰で少し涼しい。場所は下鴨神社の馬場のところ。たくさんのテントがでていて、午後から行って疲れてしまい、全部まわりきれなかった。関西にある古本市のなかでも大がかりなものだと思う。

糺の森大古本市

 この日はさいわい晴れていたが、その後は雨の日もあったのではないか。また京都は夕立が突然降ってくるから厄介。

 あちらこちら見てあるいていると思いもかけない本が出ていることもあるので、これは古本市の楽しみですね。

糺の森

 糺の森は京都古来の原生林が残るところ。森のなかを歩くと、寄付による植林もされているところがある。植生も放っておくと変わっていくので街中の原生林であるからこそ手入れも必要なのだろう。

下鴨神社

下鴨神社楼門

 最初に下鴨神社の楼門の写真を掲げておいたが、下から歩いてきても、横から入ってきてもこの朱塗りの楼門のところにくる。神社の周りは樹木がたくさんあり、糺の森という原生林のなごりもあるから、朱の色があざやかである。いつもは高野川と賀茂川の三角州のほうから歩いてきていたが、夏だし、暑い。下鴨神社のバス停で降りて、横から入るのは初めて。

下鴨神社の案内板

 上賀茂神社があるから下鴨神社と言っているが、賀茂御祖神社という。「下鴨」というのは通称。この案内板のとなりに今はこんな石が建てられている。

世界文化遺産

世界文化遺産」と刻まれた大きな石が建てられている。世界文化遺産となっていたのかと通り過ぎる。この向かい側に手水場があって、みなさんはそちらのほうが大事なようだ。

下鴨神社境内案内図

 この案内図のhere(赤字)のところ。ここから東へ歩いていく。

朱塗りの鳥居

三井神社のところ

三井神社配置図

 いまは「三井神社」となっているが、なぜ「三井」なんだろう? と思う。山城国風土記逸文(『釈日本紀』)を読むと、蓼倉の里の三身(みみ)の社と言っていたようだ。三身というのは賀茂の建角身命、丹波の伊可古夜日女と玉依日女の三柱の神の身がおいでになる。だから三身の社という。いまはしだいになまって三井の社というようになった、とある。

 建角身命はのちの神武天皇の大和入りを先導した八咫烏とされているが、もとは奈良「葛木の峰に宿っていた」ともされていて、ようするに奈良南方の葛城の鴨族と同族である。山背の国へと移ってきた経緯も山城国逸文にはある。

三井神社

 三井神社、三つの社殿が並んでいる。真ん中に祭られているのが建角身命。ことばがなまって三井となったというのは大変古くからというが、今では三井という名称には別のイメージがつきまとうので、元にもどして三身社(みみしゃ)でもよいのではと外野からの感想。

藤原宮跡

畝傍山の方向を見る

  藤原宮の発掘見学会に来たので、発掘現場から少しだけぐるりと回って藤原宮の跡を見学する。広々とした草原がひろがっていて、見通しがよい。写真のまんなかに見える小山は畝傍山、その向こうに金剛山葛城山が見える。写真は28ミリなので、肉眼で見た方が山の迫力がある。金剛山は標高千メートル以上あるから。

大極殿南門の説明板

南門の列柱跡

 前回の記事に続いて、もう一度大極殿院南門の列柱跡。ここに実際に門が復元されたら、ずいぶん大きな門となるだろう。もちろん今の眺めはなくなるが。

大極殿院の説明板

 読みづらいのですが、説明板の写真を貼り付けておきます。気になる方は拡大して読んでください。

大極殿

 大極殿の跡地。

後方基壇発掘現場

 南側から見た後方基壇の発掘現場。写真だけみているとそれほど暑そうにも見えないのだが、えらく暑い日だった。見学者も説明者のほうもたいへんな日だったと思う。テントの向こう(北)に道路があり、その北に醍醐池という溜池がある。その溜池の西側に祠(ほこら)があった。

道祖神

 道祖神

醍醐池

醍醐池横のあぜ道

 醍醐池の土手の横に水路とあぜ道があって、草が刈ってある。車が走る道路を歩きたくない。おそらく通れるだろう。と、このあぜ道の方向に進むことにした。向こう側に見える山は耳成山。途中から民家の間の道を通り、線路にぶつかる。線路沿いに、左右の方向に道がないので、途中の適当なところで曲がったほうがよい。

民家の板壁

 国道を歩くよりはずっとましだ。

藤原宮大極殿院調査現地見学会('22.8.6)

第210次調査現場

 暑い日だった。藤原宮大極殿の後方基壇が見つかって、その見学会が開かれると朝日新聞の記事で知り、どんなものかと行ってみることにした。どの駅からも結構遠い。酷暑の日だったので現地に着くまでが大変だった。もちろん帰りもたいへん。駐車場はないと新聞記事にあったので歩いたのだが、現地にきてみると臨時の駐車場があり、殆どのひとたちは車できていた。熱中症にならないためには車での移動のほうがいい。

受付のテント

 うしろにみえるテントは受付。ここで現地見学会資料のパンフレットをいただく。テントには奈文研の名前がみえる。そこの「都城発掘調査部」の資料。作業服姿の人がたくさん説明役でいた。

説明会場テント

 このテントで今回の見学会の説明が行われた。人が少ないように見えるが、頻繁に行っているので次から次へと見学者が入れ替わる。ともかく日陰を求めてこの中へ入る。

大極殿院後方基壇跡

大極殿院後方基壇跡(南方への視角)

  こんな感じの発掘現場ですが、これはたいへんな作業だなと思う。大極殿の後方に細長い建物と回廊があってそこを発掘して確認するという作業の一環。今回は西の回廊部分から基壇がでてきたということらしい。

 東回廊はすでに発掘済み。

大極殿

 見学会があったすぐ裏手(南側)は大極殿の跡地。

大極殿

 持統天皇文武天皇の名が刻まれた石柱と石囲いされた樹木が見えるが、ネットが張ってあり、直接には入れない。いったん説明場所から離れて大回りをする。

大極殿跡の樹木

大極殿跡は土盛がしてあって、樹木が植えられている。

大極殿院南門跡

 大極殿院の南門跡の柱の場所を指示したもの。いまは遮るものはなにもないので、とにかく広い。発掘現場にも感心したが、この広々とした風景を見ただけでも来て良かったと思った。