小野篁神社と小野小町供養塔

小野神社の境内のなかには、小野篁神社と小野小町供養塔があります。

小野篁神社はこちら。

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小野篁神社

 石段の下から見るとこちらの神社の建物が大きく、こちらが小野神社の本殿のように見えますが、これは小野篁神社。小野氏の一族は、学問、芸術にすぐれた人材を輩出していて小野篁はそのうちの一人。篁は養老令官撰解釈書『令義解』編成メンバーの一人。神社の横に小野篁についての案内板があります。遣唐副使になったのですが、大使の藤原常嗣との折り合いが悪く、取りやめます。そして遣唐使を諷刺した詩を作って、嵯峨天皇により隠岐へと流されます。許されて帰ってきてから参議・従三位にまで昇進しました。「野宰相」「野相公」とも呼ばれたと説明板にありますが、直情径行の人だったようです。

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小野小町供養塔

 

 石段の途中に、小野小町の供養塔があります。「供養塔」というのは地元の人たちがそのように伝えているとのこと。宝塔です。石段登り口に小野氏系図があり、供養塔のそばには小野小町について書かれてありますが、系図での小町の位置では篁の孫、説明板では篁の娘と違いがあります。ただし後者の説明板では、断定はせず、こういう説の学者もいるという書き方がしてあります。有力なのは角田文衞(ぶんえい)『王朝の残映』所収の「小野小町の身分」(初出、1983)で説かれた「小野朝臣吉子」ではないかという説のようです。これについても山尾幸久『古代の近江』にとりあげられていますので、引用しておきます。(省略箇所あり)

小野小町は生没年不詳。
820年代に生まれたようだ。830、840年代に盛んに作歌した。
14,15世紀につくられた『尊卑分脈』の「小野氏」、『群書類従』の「小野氏系図」は、小町は篁の孫、出羽国出羽郡の郡司の娘とする。{つまり→}信用できない。
角田文衞(ぶんえい)、1992、論文{上記で紹介した論文のこと}によると、仁明朝(にんみょうちょう、832-850在位)の「更衣(こうい・みやすんどころ)」という中級女官で、宮中の局町に控えていた姉妹がいて、「小町」はその妹のほうの通称だったらしい。小野小町に姉がいたことは『古今和歌集』790番の作者「小町が姉」から判る。
続日本後紀』の仁明天皇の承和九年(842)正月八日、無位から正六位上を授けられた「小野朝臣吉子」がいた。この時更衣として天皇の寝所に侍ることになったのだが、これが小野小町の実名ではないかという。これでよいであろう」。

 ここで説明は省いていますが、系図はのちの時代のもので、小町伝説(これを語り地方をまわる芸能人がいた)が混ざっている可能性が大であるということのようです。

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小野小町供養塔(宝塔)説明板