三重塔(法楽寺、大阪田辺)

法楽寺三重塔 山門の外からも塔の相輪が見える。山門から入るとこの三重塔が正面にある。相輪の金色が鮮やかだと思ったら、この塔は平成に建てられたというので、なるほどそのせいもあるのだろう。 平成宝塔説明板 平成八年に落慶法要がなされた。「平成の三…

法楽寺(大阪市東住吉区)

法楽寺門前 享保15年(1730)、平次郎(のちの慈雲尊者)13歳のとき、父の上月安範が亡くなった。行年66歳。このこともあってか、この年の11月に、平次郎は大阪の田辺の法楽寺で忍綱貞紀和上に従って出家した。しかし、朱子学の儒者の講釈を聞いていたせいか…

慈雲尊者生誕の地顕彰碑

玉江橋を北から渡り右手に少しゆくと慈雲尊者の生誕地であり、そこに顕彰碑がある。 慈雲尊者生誕地の石碑 この石碑はリーガロイヤルホテルへの道の左手にある。ここが慈雲尊者の生まれた高松藩の蔵屋敷があったところなのだろう。道沿いは壁があるので、そ…

玉江橋

玉江橋旧景 玉江橋北詰にこのような絵が嵌め込んである。長谷川貞信「玉江橋より天王寺遠景」という浪花百景の絵であるが、題名のとおり天王寺(四天王寺)の塔が橋の上から見えるという景色が描かれている。よく見ると塔があり背景に二上山のようなかたちの…

弘川寺の桜山

もみじ 西行、似雲の墳墓のあるところから上のほうが桜が植えられている「桜山」となるのだが、訪れた時は緑がきれいな時期だった。 『西行』の高橋英夫がここを訪れたときは、桜の満開がすこし過ぎたときであったが、丘の上には誰もいなかったと書いている…

弘川寺

高貴寺と磐船神社の地図を見ていたら、近くに弘川寺があるのに気づいた。弘川寺は西行が建久元年(文治六年、1190)二月十六日に七十三歳で亡くなった寺である。高貴寺からも車では近い、この際ちょっと行ってみようと思った。山の裾を縫うような道を走らせ…

磐船神社本殿と大岩(河南町平石)

読めない説明 磐船神社の説明板があるのだけれども、ほとんど読めない。かろうじて「栂」の字があり、「樛」というのは栂の意味なのだろうなと推測する。栂の木があったとあり、境内に玉垣で囲った枯れ木があるので、それらしい。 枯れ木 特別の木でなければ…

磐船神社(河南町平石)

高貴寺の近くに磐船神社がある。もとは高貴寺と一体だったが、明治期の神仏分離政策で別のものとなった。磐船神社へは高貴寺の山門の前の道(草むらの道)をそのまま進むと草むらはなくなり、ふつうの山道となる。 磐船神社への道 わかれ道 しばらく歩くと分…

高貴寺

慈雲尊者の晩年の59歳から87歳まで隠棲していた寺が高貴寺である。南河内の山中にある。平石峠への道の途中にあるかと地図でたしかめて向かった。平石という集落が谷の奥のほうにあり、そこの行き止まりのところに「高貴寺」の石標がある。 高貴寺石標 石標…

禅那台(長栄寺・河内)

生駒山中にあった雙龍庵の禅那台は、河内の長栄寺に移築されて残っている。長栄寺は慈雲尊者が若いときに住職だった寺である。禅那台がまだ残っていると知り、ぜひとも外観だけでも見たいと長栄寺へ。近鉄線で河内永和という駅で下車。改札を出て北側の細い…

長尾の滝から暗峠へ向かう

長尾の滝からの道 長尾の滝、雙龍庵跡からさらに生駒山上、暗峠への道があるというので、その道をたどる。滝から上は山道になる。適度に道が利用されているようだ。 生駒山方面への道標 この道標で「枚●駅」と「岡」が塗りつぶされている。下から上がったき…

雙龍庵跡(生駒山中、長尾の滝上)

慈雲尊者像 長尾の滝の上に、慈雲尊者が雙龍庵という庵を建て、41歳から54歳にかけて14年間にわたり、ここで隠棲していた。この間に『梵学津梁』一千巻の殆どが出来上がったと言われている。日本における梵語研究の集大成という画期的業績である。 雙龍庵と…

長尾の滝

石像 長尾の滝への道にはところどころに仏像、地蔵菩薩像などが祀られている。これは不動明王だろうか。手前の二つの像もあわせて人間っぽい顔をしている。仏像といわず「石像」と記したのはそのせい。 役行者像 これは役行者の像だろう。一歯の下駄を履いて…

長尾の滝への谷筋の道

長尾の滝の案内、警告板 長尾の滝への道の入口から少し行ったところに案内、警告板がある。谷川は「長尾渓」と記されている(「尾」という文字がほとんど消えているが)。ここを歩いてから後で2万5千分1の地図「生駒山」を入手した。それをみると谷筋は「額…

長尾の滝(生駒)への道の入口をさがす

非常事態宣言が解除されて野外へと出てみたが、マスクをしている人もかなりいる。マスクをしていると暑い。息をするのが苦しいのではずしてしまう。いままでなじみのない生駒の山に行こうとしたのは長尾の滝というのがあって、そこに雙龍庵跡があると知った…

須賀敦子のFIAT500

須賀敦子の名前を初めて知ったのは、自動車雑誌(廃刊になった)か『ブルータス』(こちらはまだ出ている)といった大判の雑誌で、誰かが須賀敦子の文章がすばらしいと書いていたのを読んだからである。できれば自動車雑誌のほうであってほしい。チンクエチ…

白いスニーカー 白い土

須賀敦子『ユルスナールの靴』から、少し長いけれど引用しよう。 「ゆるやかな斜面をおおうオリーヴの林を、私はテセイオンに向かって登った。オリーヴにまじって、樫や、ときには月桂樹がひそやかな薫りをあたりにまきちらしていた。幹にとまった茶色い小型…

須賀敦子『ユルスナールの靴』

須賀敦子『ユルスナールの靴』 前回に布ゾウリについて書いて、なんとなく須賀敦子の『ユルスナールの靴』を思い出した。須賀敦子の本はいくつか持っているし、そのほとんどは読んだが、どういうわけかこの本だけは持っているものの、未読だった。ただし、「…

布ぞうり

布ぞうり 三木市細川町へゆく途中に、神戸市北区淡河にある道の駅がある。ここには久しぶりに来た。建物が新しく建て替わっていた。そばでも食べようかと思っていたら、コロナ汚染禍で食道は閉鎖していた。ここはJAがやっている。店のなかを見ていて見つけた…

京都洛北の藤原惺窩山荘跡

藤原惺窩山荘跡の石柱 藤原惺窩は59歳で亡くなった。現代の通念からすると「早い」が、「後年の」あるいは「晩年」の惺窩は、京都洛北(左京区静市の市原町)に山荘を構えて、そこで学問に励んだ。石柱の刻字にあるように「此付近」として、児童公園がその跡…

藤原惺窩生誕地周辺の風景

八重桜 藤原惺窩の生誕地を訪れたときは八重桜が満開だった。 八重桜とその背景 生誕地からの風景 生誕地からの風景。左手の奥に見える建物が大雄寺。なだらかに傾斜している野の風景。典型的と言ってもよい野の風景である。建物は徳川時代初期と変わってい…

冷泉橋と杉の大木

杉の大木 県道85号(もしくは県道20号)から藤原惺窩の生誕地へと入る道の目印になるのがこの杉の木の大木である。手前に川があり、橋がかかっている。この橋が冷泉橋と名づけられている。 冷泉橋 この橋を渡るときに「冷泉橋」と書かれてあるのを見つけ、「…

藤原惺窩生誕地(三木市細川町)

藤原惺窩銅像 三木市に藤原惺窩の生誕地があるということは知っていた。今は道もすいているかなと、行ってみた。道はすいていた。 なにかで、公園のなかにあるなどと書いてあった記憶と街中だろうという思い込みとは違って、農村風景がひろがっている場所に…

東の谷(西谷の森公園)

東の谷 いらっしゃい ややこしいが、西谷の森公園の東の谷の入口にある。「いらっしゃい」と兎の木像。 しだれ桜 公園の入口にあるしだれ桜。ちょうど満開だった。 公園の看板 西口の森公園は北摂里山博物館のひとつという位置づけになっている。この看板を…

展望台からの眺め(西谷の森公園)、馬の背

展望台 展望台からの位置関係 展望台は公園のなかのあちこちから見える。また展望台からは見晴らしがきくので、南は六甲連山、北は三田方面も見渡せる。 西谷、遠くは六甲 眼下に西の谷の農舎が見え、遠くには六甲連山が見える。六甲は海側から見ることが多…

里山林(宝塚市西谷の森公園)

里山林 宝塚市の西谷の森公園の「里山林」。里山の林というのは「こういうものです」と言われているようなもの。手が入っていて、若い落葉樹が多い。里山として維持されるとこのようなかたちになるのだという見本なのだろう。冬にこういう林を歩いていると、…

ビオトープ

ビオトープ ここはビオトープ看板 ビオトープ2 「ここはビオトープ」看板にあるように、ここはビオトープ。枯れた水草が水のなかに点々とある。 冬なので水は透き通っていて静か。夏に来れば様子が違うかもしれない。 長い切り石が並んでいる 切石が並んで…

西の谷農舎

溝を流れる山水 農舎のほうへ道がついているので、そこを歩くが、道の脇に山水が勢いよく流れている。水がきれいだ。溝もコンクリートでかためていないので、水に表情が生まれる。 西の谷農舎 柱に「西の谷農舎」と看板がかかっている。遠くから見たとき、「…

宝塚市の里山まるごと公園

農舎 これは冬の景色だけれど、夏のこの場所の写真を見て一度行って確かめてみたいと思っていた。ここは宝塚市の西谷の森公園というところである。農家の前に田んぼがあって、背後には山。写真でみるかぎり典型的な農家の風景と見えたのだ。 来てみてよかっ…

雁多尾畑という地名

雁多尾畑は「かりんどおばた」で、ワープロの辞書ではでてくる。地名がワープロの辞書に入っているらしい。「かりんど」だけではこの漢字は出てこない。 さて、雁多尾畑は大阪の地名のなかで難読地名のひとつになっていると思われる。なぜこのような地名と読…