2019-01-01から1年間の記事一覧

「野」の字源について(白川静『字統』)

白川静『字統』から、「野」の字源について以下に引用しておきます。 以前にあげました『岩波古語辞典』の「野」の解説と比較しますと、これは中国の漢字の解説(解字)です。日本語の古語辞典の解説とは異なることがわかります。といっても、これだけではわ…

邍(ゲン)の意味(白川静『字統』)

邍(ゲン)[原]、これは「原」のもとの、本来の漢字です。これの字源とその意味について白川静の『字統』は相当詳しく解説しています。さすが! この記述を読むと『字統』がなぜ評価が高いのかが分かるような気がします。 ○邍(ゲン)[原]:形声。声符は、辵…

「原」の字源と意味(諸橋大漢和、白川静『字統』)

漢和辞典では諸橋轍次『漢和大辞典』まで参照した。漢和辞典を引いて分からない漢字がでてきても、諸橋大漢和を引けば解決する。とある漢字について、最終的に知りたいというときに、何度お世話になったかわからない。辞典も、諸橋大漢和までくるとほぼ最終…

「野」と「原」の意味(漢和辞典)

それでは漢和辞典での「野」と「原」の意味を調べてみます。 その前に、注意しなければならないのは、中国思想研究者の溝口雄三氏がどこかで書いていたことと記憶していますが、漢和辞典は中国語の辞典ではない、ということです。漢和辞典は日本語の辞典、日…

現代中国語での「野」と「原」

現代日本語、古語日本語での「野」と「原」の語義はどのようなものかと見てきたのですが、はっきりしていそうで、もうひとつ分からないところがあるような、そのような説明のしかたになっていたような気がします。そのなかでも岩波古語辞典は、かなりつっこ…

古語辞典で「野」と「原」を調べてみた

日本語といっても文字文献では古事記、日本書紀、万葉集の時代からある。そこで、古語辞典でしらべてみた。古語もすべての辞典をしらべたのではないので、その点はさしひいてください。 ○『全訳読解古語辞典』第二版、三省堂。題名のように、訳語が用例にす…

「野」と「原」(日本語[国語]辞典の記述)

「野」「原」の辞書的意味はどうなっているのだろうか。国語辞典の場合を見てみよう。国語辞典の全てを調べたわけではないので、その点はご容赦を。司馬はこの二つ(野と原)の語釈を、意味にうるさい辞書も避けていると言っている。例として『大言海』を挙…

「野」と「原」(司馬遼太郎「阿波紀行」)

司馬遼太郎『阿波紀行、紀ノ川流域』の「三好長慶の風韻」のところに(99頁)、「原士」(はらし)という言葉が出てくる。これは、司馬の言うところによると、「湯桶読みだが、稲作できない土地を耕す武士のことであり、阿波独特の制のことである。数は藩全…

司馬遼太郎「三好長慶の風韻」

司馬遼太郎も三好長慶の「古沼」のエピソードを取り上げている。『街道をゆく』32(朝日新聞社)、「阿波紀行、紀ノ川流域」。このなかの「三好長慶の風韻」という節においてである。風韻とは風雅なことをいう。長慶は優れた武将であったが、飯盛城での連歌…

松本健一『泥の文明』における「古沼抄」

花田清輝の「古沼抄」は、松本健一『泥の文明』(新潮社)でも取り上げられている。もっとも、「古沼抄」にある三好長慶の連歌の会のエピソードは、司馬遼太郎も取り上げている。 連歌の会での長慶の付け句は、会の途中で弟の実休入道(三好義賢)が岸和田城…

花田清輝「古沼抄」

花田清輝に「古沼抄」というエッセイがある。(『日本のルネッサンス人』朝日新聞社、1974年、所収)その冒頭は次のような書き出しからはじまる。 「永禄五年(一五六二)三月五日、三好長慶は、飯盛城で連歌の会をひらいていた。・・・誰かが、『すすきにま…

五連の竈(竃、かまど)

土間には(板間とのあいだには)五つの竃が並んでいる。また土間の北側にはさらに大きな竃がある。これは災害などの救恤のときなどに使われたものだそうだが、会所での大人数での集まりなどでも使用されたであろう。汁もの、煮込み料理に使う大鍋が竃にかか…

土間と梁組(鴻池新田会所)

鴻池新田会所本屋の土間と梁組。これほど広い土間を見たのははじめて。鴻池新田を束ねる会所の土間だけのことはある。この土間でいろいろな作業も行われたのであろう。上を見上げると立派な梁組が見える。説明には400年もののクロマツが使われているとある。…

鴻池新田会所本屋

JR住道から一駅、鴻池新田に「鴻池新田会所」が残されている。重要文化財。学研都市線の電車の高架から住道方面に向かうとき右手に見える。あっという間に通り過ぎるけれども、実際に訪ねてみると、たいへん立派な会所であることがわかる。その名の通り、大…

住吉神社(住道)

住道はもとは角堂浜(すみのどうはま)と言った。今は恩智川と寝屋川の合流地点に祀られている。JR住道駅を下車、デッキのところへ出るとそれはそのまま川の対岸に渡る橋になっている。橋の途中に右手に川の合流地点へとゆるやかに降りてゆく小さな橋があり…

三箇大橋(の下部)

恩智川の方向にもどると新しい橋が見える。車道、歩道がわかれていて、川を渡り、恩智川に沿って道も通り、分岐もあるので複雑。橋の下に新しい石碑もある。読むと計画から約40年以上も経て、この橋の架け替えが完成したとある。住道地区の最後の河川改修工…

旧吉田川跡(北端)

八幡神社のところからJR線に沿って住道方面へ歩いてすぐに、南側に旧吉田川跡がある。そうだと見なければ、ただ刈り込んだ生け垣があるだけの風景。ここは大和川の支流だった吉田川が深野池に流れ込んでいた場所。ここから南の吉田(東大阪市の花園ラグビー…

八幡神社狛犬と神社縁起

写真は狛犬の後ろ姿から見たもの。台石に「團野氏」と彫られている。「御供田」はその昔「團野村」と言ったという。團野氏は、この地の名家だった。石清水八幡の社領(御供田)だったことから、「御供田」という地名となったという。 神社縁起には、源義家の…

八幡神社(御供田)

白壁の蔵のすぐ近くに八幡神社がある。遊歩道からは、神社の裏側しか見えない。ちょっと見てみようと南側へとまわる。神社の建物、石の鳥居は新しい。だが、由緒は古い。「御供田」という土地の名称がなぜついたのか、その由緒書きも神社に掲げてある。(神…

旧恩智川(御供田地区の雨水貯留施設)

恩智川を住道方面に渡ると、左手に緑地が見える。そこが旧恩智川の川床で、今は雨水貯留施設となっているところ。川床は遊歩道となっており、土手にはいろんな植物が植えてある。川筋を変えて埋めることはせず、雨水を貯めるところとしてつかっているのは、…

恩智川

古堤街道を住道の方向に歩いてゆくと川に突き当たる。川を越える車専用の道路があるが、歩行人、自転車専用の橋がかかっており、それを渡る。渡るとき何という川だろうかと思ったのだが、渡り終わったところに案内絵図があって恩智川だとわかった。写真でわ…

大東市マンホール図柄(野崎まいり)

古堤街道を歩いていて、ふと足元のマンホールを見たら、野崎まいりの図柄になっていた。昔の絵図から構図をとってきている。細部は絵図そのままではなく、少し変えてあるようだ。野崎観音の竜宮門があったり、大東市のマークが舟の帆柱にひっかけてある笠の…

農民感謝碑

平野屋新田会所跡の土蔵礎石のある所の北側に隣接している、小さな密林状態となっている場所がある。小学校のところから橋を渡ってすぐの所に石碑がある。農民感謝碑で、「明治18年と22年の大水害時に、地主高松氏や支配人による救済活動に対し、農民が感謝…

平野屋新田会所跡(跡地の一部)

平野屋新田会所は約2400坪あったそうだ。立派な長屋門、本屋、土蔵、などがあって、「新田」開発の様子を伝える歴史的に重要な場所だった。いまは坐摩神社と跡地の礎石が一部残っているくらいだ。船着き場の石段もあったが、いまは調査のうえで埋め戻されて…

坐摩神社(平野屋新田会所跡)

街道らしくない道をひたすら歩いて、国道170号線(新)を渡り、西へ。この道でいいのだろうかと思いながら歩くと、「坐摩神社」と彫ってある石柱がある。歩く方向によっては見落とすかもしれない。道の北側、奥のほうに行くと坐摩神社(いかすりじんじゃ)が…

東高野街道から古堤街道へ

東高野街道を南下する。大阪産業大学のところを通り抜け、道が少し狭くなる。すぐに石柱がたっている道路と交差する。生駒の山の方を見るとなんとなく旧街道のような気もするが、よく分からない。おそらく古堤街道だろうと右手の方向に(西の方向)にゆく。…

東高野街道=国道170号線(旧)

大阪生駒線(府道8号)を越えて少し歩くと、国道170号線(旧)と合流する。合流地点に「東高野街道」の標柱がある。それまで歩いてきた東高野街道とは、まったく道路の雰囲気が変わり、こういう標柱がないと旧街道であることがわからない。人が歩く街道が、…

東高野街道の郵便ポスト(大阪生駒線の近く)

東高野街道を南にゆく。もう少しで大阪生駒線というところに軒先に赤いポストと切手、印紙類販売の看板が下がっている家がある。ポストは四角くて使われているのだろうけれど、切手なぞは売っているのだろうか? まだ小さいときに街角でよく見かけた家のたた…

メノコ橋の欄干

大東市歴史民俗資料館のところから、東高野街道を南下するとすぐに「メノコ橋の欄干」がコンクリートの上に並べてあり、となりにその説明板がある。詳しい内容はその写真の説明を読んでもらうことにして、昔ここには井路があり、橋が架かっていた。その石の…

野崎まいり舟運の図

ようやく野崎詣りの、大坂からの舟運の図が登場する。今の野崎のところからは本当に舟が行き来していたのかと疑問になるが、いまでも「津」のつく地名が残っている。大坂の八軒家浜から徳庵、住道を経て、観音浜までの水路があった。八軒家浜はいまも大阪の…